
「正しさ」という若い無邪気さだけでは、リアルな矛盾の海を泳げない
アトリエ系の設計事務所という小さな組織にいると、毎年のように新卒のスタッフが入ってきては、数年で次のステップへと旅立っていくサイクルが日常になります。
気がつけば、新しく入ってくる若手との年齢の差は開くばかりで、今では7、8年ほどのキャリアの開きが生まれるようになりました。
そんな彼らの立ち振る舞いを見ていると、時折、ある種の無邪気な「若さの暴力性」のようなものを感じたことがあります。
私がすでに事務所を去った前任者の案件を引き継ぎ進めていたときのこと。
直近でさまざまな建築知識を吸収し始めた新卒のスタッフが、図面の中の不一致やミスを見つけるたび、まるで鬼の首を取ったかのように覚えたての知識をひけらかして激しく批判していたことがありました。
確かに、図面としては統一されていなければなりません。そこだけを切り取れば、それは間違いなくミスです。
しかし、その表面上の間違いだけを見て、立ち止まることもなく「これは間違いだ!」と断定してしまう姿勢に、私は若さゆえの勢いを感じてしまうのです。

日本の、特に歴史や美観を重んじる厳しい地域では、景観を守るために非常に多くの条例が課せられています。
そこでは、とある条例から「街並みに合わせて簾(すだれ)を取り付けるなら許可を出す」と言われる一方で、別の法律ではその取り付け方にストップがかかるというような矛盾が日常茶飯事のように発生します。
お客様へお見せする最終的なプレゼン資料には、理想の仕上がりとしての簾を描かなければなりません。
しかし、実際の申請図面や現場監理においては、単純に法規や指導では縛り切れない状況が生まれてしまうため、あえて図面上の表現を微妙にコントロールするような、大人の綱渡りが必要になる瞬間があるのです。
決して法規や条例に違反しているわけではありません。
役所の担当者や関係者との粘り強く丁寧な、ときに大胆な交渉と話し合いのうえでたどり着いた、条文では示し切れない物件ごとに生まれる個別解なのです。
そうした何十時間にも及ぶ苦悩や、関係各所とのヒリヒリするような調整の海の中で、人間がどうしても起こしてしまう図面上のエラー。
その背景にある、めまいのするような複雑な事情に、当然ですが新卒の彼らの想像力はまだ及びません。
若い人がまずできるのは、学校のテストの延長線上にある「減点法の間違い探し」です。
だから、正解を見つけたり、他人のバツを見つけたりすると嬉しくてたまらないのだと思います。
一方で、私たちが本来やらなければならないのは、教科書通りの正しさが通用しない矛盾だらけの現実を物理空間に着地させるという「加点法のクリエイティブ」です。
見ている世界が決定的に違うのですから、こちらの言葉がすぐには届かないのも、ある意味では当然のことなのかもしれません。

しかし、その自信満々で、自分の知識だけが世界を救うと信じ込んでいる姿勢を、私は決して嫌いにはなれません。
むしろ、すべてを分かっていると錯覚できたあの無敵の時代の眩しさを思い出し、羨ましくすら思うのです。
根拠のない自信を持てる人間こそが、最終的にはこの厳しい業界で大成していくのだとも確信しています。(私がビビリなのでよく分かります)
知識というのは、本来はとても複層的なものです。
世の中は彼らが思っているよりもはるかに複雑で、とある側面から見た間違いは、別の側面から見れば現場を守るための正しい判断だったりします。
それは経験を積むにつれて、くるくると表情を変えていくものです。
表面的な数字や結果だけを見て、誰かの頑張りを全否定するような批判は、いつか自分が一からプロジェクトを背負い、現実の壁に突き当たったときに、自然と終わりを迎えるはずです。
その時になって初めて、かつて自分が放っていた言葉の刃の鋭さと、世界の複雑さに気づくのでしょう。
かつての自分を見るような恥ずかしさを覚えつつも、彼らの圧倒的な伸び代を眩しく眺めながら、私もまた、自分の普段の設計に対する姿勢を正されるような気持ちになったお話でした。
※ほんとうのミスの指摘ももちろんしています。その新卒だった後輩は間違いなく優秀でしたので、そこは若いのに本当にすごいです。
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お読みいただきありがとうございます。
今回は若手との認識のズレについて書きましたが、建築設計の仕事はこうした「正解のない答えを出す」ことの連続です。
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