
学生時代の「コンペの星」は実務でも優秀なのか?凡人がアトリエ事務所で生き残るための道
学生時代にコンペを総ナメにし、賞を取ってきた優秀な人は、働いてからも優秀なのでしょうか?
結論から言います。
当たり前です。モノが違います。彼らは実務の世界でも「超優秀」です。
建築の社会的な意義も、現実的な納まりも学生の頃から自分なりに考え続けているし、建築そのものやプレゼンボードを散々デザインして磨いたセンスや感性がある。
講評会で偉い建築家たちの前で発表し、バチバチに議論してきた度胸と論理的思考力もある。
研究室での専門的な活動や、学生有志で実施設計を行った経験、部活・サークル活動を精力的に行う体力、旅行や留学で世界・日本を駆け巡った知見もある。
構造や設備との兼ね合いだって、1〜2年実務をやればすぐに勘を掴みます。意識して新たに覚えることといえば実際の金額感(コスト)くらいですが、それも嫌でも身につきます。
つまり、どの企業も喉から手が出るほど欲しい「超優秀な人材」で間違いありません。
結論は、みんなが薄々わかっている通りでした。終わりです。
……というのは半分冗談で、本当に言いたいことは別にあります。
スポットライトを浴びない私のような学生たちへ
上記のようなバケモノ級の人材は、全体の何%だと思いますか?
建築学科の仕組みとして、大半の学生は「講評会(大勢の教授陣の前で作品を発表し批評してもらうメインイベント)」にすら選ばれません。全員を講評する時間などないため、優秀な人、あるいは議論の的になりそうな尖った作品がピックアップされます。
私も普段の設計課題でたまーーーーに選ばれた経験はありますが、卒業設計をはじめ、コンペに出しても箸にも棒にもかからない、そんな超絶凡人などこにでもいる建築学生でした。

もちろん選ばれることだけが目的ではありませんが、「私は優秀ではない、建築向いてないんだ…」とよぎったこともよくあります。
選ばれなかった大半の学生はどうなるか。担当の教授からちょろっと個人的な意見をもらって、その課題は終わりです。これが、建築学科のリアルな風景ではないでしょうか。
では、選ばれなかったその人たちは「優秀ではない」のでしょうか?
まっっったく、そんなことはありません。 スラブ、梁、カーテンウォールといった専門用語を共通言語として理解できること(世間一般からすれば専門用語です)。
建物を図面として書き起こせること。スケッチが描けること。模型という立体物を正確に美しく組み立てられること。パースという技法を駆使して、まだ存在しない空間を他者に視覚化できること。CAD、Illustrator、Photoshop、Rhinocerosなど、多種多様な専門ソフトを扱えること。
パソコンの扱いそのものに慣れているので、今まで使用してこなかったソフトの使用を義務付けられても、即対応できること。
建築学生を卒業する頃には「全部できて当たり前」だと思い込んでいませんか? 世間から見れば、これは既にものすごい特異なスキルを備えた状態なのです。
その知識やソフトを使いこなせる時点で、あなたは「超優秀」なのです。
「学生時代の優秀さ」が実務で関係なくなる、本当の理由
ではなぜ、「学生時代に優秀でも、実務では関係ない」という意見がまことしやかに囁かれるのか。個人的な見解ですが、理由はシンプルです。
辞めるからです。
あんな恐ろしい働き方をして、心身を壊さない方がおかしいのです。
実務で活躍している優秀な人というのは、決して最初から天才だったわけではなく、「過酷な環境を生き残った人」でもあるのです。やり続けたから、結果的に優秀だと思われることにつながります。
「十で神童、十五で才子、二十過ぎればただの人」なんて言葉がありますが、学生時代に優秀だったかどうかなんて、そういう意味では本当に関係ありません。「続けた人」が、後天的に優秀になっていく世界です。

続けることこそが、最大の才能
もし今、「自分なんて周りの天才たちに比べて全然ダメだ…」と絶望している人がいたら、「何の問題もない」と伝えたいです。
私を含め、今あなたの周りにいる先輩たちは、ただ生き残ってきただけです。あなたも辞めずに続ければ、必ずそうなれます。建築はセンスの部分も確かに大きいですが、「実務の納まりや法規を知っているか、いないか」という知識の蓄積が、センスと同じくらい大きな武器になるからです。
でも、その「続ける」のが一番難しいんですよね。何事も、継続こそが最大の才能だと言われるくらいですから。
ではその天才ではない大半の凡人が、過酷なアトリエ設計事務所で確実に生き残り、自分自身の価値を高めていくための具体的な立ち回り方とは何なのでしょうか。
まずは、