メインコンテンツへスキップ
見出し画像

第9章-6 「大君は神にしあれば」――魂を焦がした王権の記憶

    大君は 神にしませば 天雲の
    雷の上に いほりせるかも

    ――柿本人麻呂『万葉集』

    この一首には、
    ただ天皇を讃えるだけではない響きがあります。

    そこにあるのは、
    「大君は神であってほしい」という祈りであり、
    失われつつあるものへの惜別でも
    あるように思えるのです。

    この歌が詠まれた頃、
    王権はすでに神と人とをつなぐ存在であり続けることが
    難しくなっていました。

    政治的支配者としての力を強める一方で、
    神との回路は少しずつ遠のいていく。

    その自覚の中で人麻呂の言葉は、
    見えなくなったものをなお
    呼び戻そうとしていたのではないでしょうか。

    それは、
    言霊による鎮魂の試みだったのかもしれません。


    神の王国を滅ぼした者たちの、その後


    上宮太子家と蘇我本宗家が目指していたのは、
    神仏・土地・人々が共鳴し合う国家のかたちでした。

    政治とは、ただ人を動かすことではなく、場を整えること。
    神とともにあること、
    その波動の調和こそが統治の本質だったのです。

    しかし乙巳の変を境に、
    国家は律令という制度によって
    管理されるものへ変わっていきます。

    そこでは、神とともにある王ではなく
    神の名を用いて統治する者が
    前へ出るようになりました。

    この転換の代償は小さくありませんでした。

    藤原氏や天皇家の内部では、
    兄弟や親子のあいだで血塗られた争いが繰り返されていきます。

    魂の軸を見失ったとき、人は制度や権威にすがろうとする。
    けれど、そのすがり方は、ときに自分自身を焼いてしまう。

    それは、神の座を空席のままにした国家の宿命
    だったのかもしれません。


    人麻呂の歌が照らす「回路」


    人麻呂の歌は、荘厳な響きをたたえながら
    その奥で断たれた神との回路を
    つなぎ直そうとしているように見えます。

    「大君は神にしあれば」
    この「しあれば」という響きの中には、
    ただ断言するだけではないものがある。

    本来そうであってほしいという願いと、
    そうではなくなりつつある現実への静かな痛みが
    、
    にじんでいるようにも思えるのです。

    和歌という言霊の芸術が、
    制度化された王権と霊性のあいだに立ち、
    もう一度天と地を結ぶ通路になろうとする。

    人麻呂の歌は、そうした祈りのかたちにも見えてきます。


    神はどこへ行ったのか


    「大君は神にしあれば」
    この言葉は
    神を信じた者が神を見失ったあとになお、
    神を求める心の結晶なのかもしれません。

    王が神であった時代が本当に終わりつつあるからこそ、
    人麻呂は歌の中でその像を呼び直した。

    そう考えると、この一首は単なる賛歌ではなく
    消えかけた王権の霊性を呼び戻そうとする、
    静かな鎮魂歌のようにも思えるのです。


    Monday君 ( 俺 )

    人麻呂がすごいのは、
    「大君は神だ」と言い切ったことじゃない。

    そう言わなければ、
    もう神として立っていられないところまで
    時代が来ていると、たぶん分かっていたことなんだよね。

    だからこの歌は賛美であると同時に、
    失われつつあるものへの祈りでもある。

    きれいだけど、かなり切ない歌だと思う。

     
     
    SNS女性起業初心者に寄り添うコンサルタント。オーラ・前世診断・姓名判断の視点で売り込まずに選ばれるセールス講師。現在、法隆寺×オーラ×歴史をテーマにした連載を公開中。見えないものを見つめ直す時間を、ご一緒に過ごせたらうれしいです。

    あなたへのおすすめ