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対話はピンポンゲーム(2)

    聞いて、話して、泣いて、笑う。

    大切な友達と話す、かけがえのない時間♪

    伝えた言葉は、修飾語などの余計なものを付けると全く本来の目的と違う風に伝わってしまいます。

    自分の照れは、ぐっと押さえて「率直に、率直に!」伝えていきたいものですね!

    でも、どのような状況で、どんな背景のもと、誰に会うのかにより心が違って、対話も違うことになります。

    そう、どれが本当なのか、実は、自分も、相手も、分からなくなってしまうことで、距離が、どんどん広がってしまうこともあるでしょう。

    その広がった見えない部分を、人は恐怖することになるのだと思います。

    人間はそもそも見えないこと、やっていないこと、に対して恐怖を感じがちです。

    たとえば子供。

    子供がなぜ闇を怖がるかといえば、見えないからです。

    で、なぜ我々大人がそれを怖がらないのかというと、見えないが何もいないことを知っているからです。

    見えないもの、やっていないことを人間は避ける傾向にあります。

    なぜなら、そうしたほうが安全だからです。

    だけど、その見えないものを知りたいと思う気持ちが、自分の情報の中で、状況を作り上げてしまうことに注意しなければいけません。

    真実と事実。

    原因と理由。

    各々が、違っているように、違っていることを認識しておく必要があります。

    また、人間は視覚により、多くの情報を得ているのは間違いないところです。

    例えば、音声によるコミニュケーションである会話も、実は、身振り手ぶりや表情に多くの情報を得ているということが、最近の研究で判ってきています。

    「見えない=コントロール(予想)できない」と考えるのか、一般に見えないものに対する恐怖は、並々ならぬものがあります。

    実際はそれが見えていようと見えていまいと、「コントロールできるものは、コントロールできる」のだから、「見えない=怖い」ではなくて、「コントロールできない=怖い」となるはずです。

    「見えない=コントロール(予想)できない」とはどういうことなのか、それは「コントロール(予想)できない=知識が足りない」と言っていい。

    ここで「見えない」を「理解できない」と置き換えると、すんなり納得いくと思います。

    ということは、さらに「見えない」ことと同様に、「触れない」ことも、理解し辛いものとして、恐れを抱かせることになります。

    これは、とりもなおさず、「正しい知識」が足りないゆえに起こることと言えますよね。

    人にとって、全くワケの判らないものであれば、「とりあえず定義して納得」して「理解したふりをする」こともあるわけですが、結局、実際とは違うので疑心暗鬼になって、結局恐怖はなくならない。

    となると、現在発展途上や未開拓の知識や情報も、実は、恐怖の対象となりえるのではないだろうかと思います。

    今やほとんどの情報がディスプレイ上で完結しています。

    しかし、ほとんどの人は紙に出力しないと「落ち着かない」。

    これは、必要がそうさせるのではなく、恐怖がそうさせるのだと感じます。

    そこで、ひとつの結論に到達できます。

    可視の(理解できる)ものを増やすことが恐怖を克服する術があることです。

    でも、理解したフリでは役に立たない。

    こういった仮面により、本心がどんなものか自分もまた知らずにいる時が多くなっているのかもしれません。

    心が対話に現れていることよりは、相手に望むことが対話の前面になっていることが実に多いんじゃないでしょうか?

    自分の心は自分も分からない時が多いし、どのように出ることが私の分からない心を分かるということなのか、頭を抱えてしまうことも、ありますね^^;

    単に相手が何を望むのか知っているだけではないか?

    私が何を望むのか?

    相手に何を望むのか?

    結局、対話は自分が願うものを得るためにという活動になるのかも知れません。

    「人生は一度きり、やりたいことをやらずに後悔するのは卑怯だ。」

    映画の評論家・萩昌弘さんの言葉です。

    繰り返しになりますが、対話の中でも、常に正確な情報の収集に努め、問題を肌で感じとり、幅広く吸収する力や大局に立って冷静に判断する力量が、常に問われているだと思います。

    そのためには、探求の姿勢を堅持し、生涯を通じて学び続ける人でありたいものです、ね(^^)

    そうそう、「玉、琢かざれば器を成さず 人、学ばざれば道を知らず 」とも言いますし、ね。

    『礼記』(古く中国で、周から漢にかけて儒学者がまとめた礼に関する書物)にある言葉です。

    玉は磨かなければ立派にならない。

    人も学ばなければ立派な道を知ることができないとあります。

    言い換えると、人は学ぶことでどこまでも魂を高めていくことができるということを意味しているともいえますね。

    よく例えられる様に、人の心はダイヤモンドに似て、磨けば光る性質を持っている。

    その自分を光輝かせていく方法が、学びであるわけです。

    学ぶことが、やすりや布のようなもので、自分を磨いていることにつながっているのでしょう。

    ダイヤモンドも磨くと光ってくるように、人も学ぶと光ってくるんでしょうね。

    光はあたりを明るくし、迷わずに前に進むことができます。 

    光のない暗がりでは、不安でどう進んでいったらよいかわかりません。

    人にとっての光とは、知ることです、ね(^^)

    さまざまなことを知ることによって、迷わず人生を生きていくことができるようになるのだと思います。

    「知ること」「学ぶ」ことは大事なことだと思います。

    考え方や、生き方に差が出てくると、私は思っています。

    その「知ること」「学ぶ」方法の1つとして、「本を読むこと」をすすめたいですね。

    この頃は、会話や対話を行う上での頼みの日本語さえ満足に使えなくなってきています。

    主語があって、それから間にいろいろと修飾語が入って、最後にきちんと日本語らしく着地するという話し方ができる人が減ってきている感じがします。

    そういう長い文節の言葉ができるようになるためには、ある程度訓練が必要なのです。

    本を読まないと長い文節の言葉は使いこなせるようにならない。

    そのためばかりとは言えませんが、日本語の「使えない」人が増えています。

    また、日本語をしゃべっているからと言って、日本語が「使える」わけではありません。

    長い文をきちんとした日本語で話せたり、抽象的な語彙のゾーンが使えるかどうかが、その人の日本語力の指標です。

    本を読まないと、ほんとうの意味で日本語を使えるようにならないし、日本語が通じなくなります。

    「通じる」「つながる」というのは本来非常な快感で、頭がいいということは、すなわち、つながりを生む文脈の読解力があるということだと思います。

    だから、できれば、自分の力となり、実となり、自分を高めてくれる本を見つけて、ぜひ、読んでみてほしいと思います。

    そういう本は、必ずあるし、見つかるから。

    特に、迷ったり、悩んだり、行き詰まったときには、誰かに話すのもひとつですが、その前に、本を探して、ぜひ読んでほしいと思います。

    必ず、自分にピッタリとくる本はあるし、力になってくれる、元気をくれる、支えてくれる、道を教えてくれる本は、かならずあるから。

    本を読むのは苦手・・・・・・などといわずに・・・・・・ぜひ。

    本は、助けてくれ、教えてくれ、元気をくれ、自分を深めてくれます、本当です。

    それに、はまると、とても楽しいですから、ね(^^)

    絶えず新たな知識や技術を習得し、創意工夫するという視点を持ち続けてほしいと思います。

    「断じて行えば鬼神もこれを避く」という言葉があります。

    意味は、決断して、くよくよためらわず、勇敢に行えば恐ろしい鬼神でさえも道をよけて通らせる。

    強い決意と勇気で事に当たれば、どんなこともできるということ。

    秦の趙高の言で、本来は、悪事を断行する時にいったものなんですけどね。

    自分が願っているということだとして、悪いことを話するのではなく、楽しい時間を望んだり、慰められることを望んだり、相手を助けることを望んだり、時には自分の欲を満たすために相手を利用する場合もあるいかもしれない。

    要は、対話は上手にすることが重要なことでなく、どのようにピンポンゲームを楽しんで協力するかが大切なんでしょうね。

    一緒に、協力して楽しむことで満足できたら、いいなぁ~と思います(^^)

    だから、「対話」とは、話し合って、相互に理解しあうことではなく、信頼しあい、愛し合うことなんでしょうね。

    また、「対話」とは「説得」や「折伏」ではなく、相手の言うことに耳を傾け、さらに自分の主張を変える用意がなくてはいけないんだと思います。

    言葉だけでなく、情感こそうまく「キャッチボール」し、相手との距離感を適正に保ってお互いの納得を得ることだ、と思います。

    対話をおこなうものは誰であれ、対話相手を平等なるパートナーとして尊敬し、受け入れてあげる。

    対話とは競い合いではないのだから。

    相手を打ち負かすことではなく、相手を理解し、尊敬の念を持つこと。

    きずなを結ぶことを前提としたコミュニケーションができているのか?と、常に、自分に問い質しながら、相手ときずなを結ぶ姿勢で話し合うこと、それが対話なのだと思います。

    相手を否定したりお互いを論破するための話し合いを対話とは呼ばないから。

    それは絆を結び、ともに生きる態度ではないことに気づかないといけませんよね。

    だから対話において重要なのは、自ら話すこと(speaking)よりも相手に耳を傾けること(listening)なのだと、つくづくそう思います(^^)

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    対話はピンポンゲーム(1)
    https://note.com/bax36410/n/nc17437b34e61

     
     
    固定観念や社会の物差しに捉われることなく、まずは自分(being)、それから自分のやるべきこと(doing)を考えて、発想の転換や内面的・本質的な成長を促していくテーマを決めて書いていこうかなって考えています。

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