
絶罪殺機アンタゴニアス 第一部 エピローグ 下
片膝を突く巨神は、黒紫の罪業光をもはや発していない。
かつて黒かった装甲は、まるで燃え尽きたように灰色に漂白されていた。
罅割れ、欠け落ち、風化している。
人型兵器と言うよりは、何かの墓標のようだった。
その不吉な連想を振り払う。
歩みを進める。
近づくにつれ、透き通ったソプラノのハミングが、徐々に耳朶を撫でていった。
うれしげで。
たのしげで。
少しかなしげな、言葉なき歌。
ゼグが合成木材を組み上げて作り出した、階段状の足場を踏みしめる。
ぎぃ、と軋む。
瞬間、ハミングが止む。そして一斉に花が咲いた。
ゼグの全周囲を、白く可憐な花々が取り巻いていた。それが花と呼ばれるものであることを、ゼグは「彼女」自身から教えられた。
茎や幹のようなものはない。何もない虚空に、突然大量の花が咲いたのだ。
〈あら、ゼグさま。おひさしぶりなのですわ〉
「……おう。あいつの様子は?」
花々は、一斉にふるふると頭を振った。
〈お変わりなく、ですわ〉
まぁそれならそれでいい。
ゼグは歩みを進める。
大勢の子供がじゃれかかってくるように、大輪の花がゼグの周囲を舞い飛んでいる。
ギドの庇護下にいた頃の暮らしを思い出しそうになり、かぶりを振る。
〈きていただいてとってもうれしいですわっ! ゼグさまったらほうっておくと天球が三周してもずっと音沙汰なしなんですもの〉
「邪魔しちゃ悪いかと思ってな」
花々は一瞬きょとんと動きを止め、直後に右往左往しながらてんでバラバラに回転し、忙しなく飛び交った。
〈な、な、なんのことかぜんぜんわかりませんわっ! わたくしたちは、そそそそんな他の人を排斥しなきゃいけないような関係ではありませんわっ!〉
「はいはい、お熱いこって」
〈な、なにが熱いとおっしゃるのかわたくしぜんぜんわかりませんわっ!〉
やがて、足場の最上段に到達する。
そこには、小さな庭園があった。
茎も幹もなく葉だけが存在する植物のようなものが、風に揺らめいている。これはメタルセルが見せる脳内映像ではなく、現実に存在するものだ。
白い花や、艶めく蝶や、透き通った小鳥たちが舞うただなかに、瀟洒な装飾の施された寝台がある。
船のような、棺のような形のそれには、ひとりの痩せこけた子供が眠っていた。
黒いボディスーツの上に、白い病衣をまとった、その少年を。
ゼグは、よく知っていた。
「よう、相変わらず寝ぼけてんのか」
語り掛けながら、そばに寄る。寝台の縁に手をかける。体温で温かかった。直前まで誰かがそこで腕を組んで間近から眠る少年を見ていたのだろう。
「俺ぁもう酒を飲んでもあんたに眉をひそめられたりしないトシになったぜ。へっ、ザマーミロだ」
デコピンを数発叩き込んでやる。
白髪の少年の胸は、上下していない。
体温も、ない。
だが、十年間も一切腐敗が進行せず、あの時のままの姿を保っている。
こいつに何が起きているのか、ゼグにもわからない。
だが、待つつもりだった。
必ず目を覚ますと、信仰した。
何の根拠もないけれど。
いつまでも、待つつもりだった。
振り返る。
そこには、異形の人影があった。
神が人界に降り臨むなら、きっとこのような姿を取るのだろうと納得させるような、異形の至美であった。
ただそこに立っているだけで崇拝を呼び起こす美貌の娘――にも似た姿であった。だが明らかに人間ではない。側頭部よりねじくれた角が生えていた。根元から先端に向けて、およそ色彩と呼べるすべての色をめぐるように、ゆっくりと滑らかに変色し続けている。
角と同じ材質でできた、生物的な意匠の環が娘の頭上に浮遊し、その周囲で罪業場の曼荼羅が緩やかに回転していた。それは五つの並行世界と、その絆を戯画的に表現する感性の芸術にして、次元を繋ぎ合わせる結節点でもあった。
娘は白く輝くドレスをまとっている――ように見えるが、実際にはそれらは筋肉と神経の通った触手である。揺らめく触手は透き通り、内部には白い光の粒子の吹き溜まりがわだかまっていた。
総じて、異形の女神とも言うべき、畏怖を呼び起こす姿であったが、しかし本人は顔を赤らめて両手で頬を押さえている。
寝台からは微妙に距離のある位置に立っていた。よほどゼグのさっきの発言に動揺したのか。
「……おい、俺が来てないときに何してようが別に構わねえけど、本人の同意がないとまずいことは自制しろよおめー」
生ける並列多元罪業変換機関にして、五つの並行世界の結び手たる淑女は、全人類に畏敬の念を呼び起こさせるほどに完璧な造形の唇を開き、言った。
「わ、わ、わかってますわ! でもでも、さみしかったのですわ!」
「やったのかよ! ヒくわ! 何しやがった! 正直に吐け!」
「その……手を……」
「手を?」
「……うぅ……握ったり……とか……は、はずかしいから勘弁してくださいませ!」
「奥手か! 十年付きっ切りでそのレベルか! それはそれでヒくわ!」
「毎日女の子をとっかえひっかえしているゼグさまにはわからないのですわっ!」
「毎日じゃねーよ! 人聞きが悪いんだよおめーはいつも!」
口やかましく言い合いながら、ゼグは寝台に眠る少年を横目で見る。
――よう、聞いてるか。
あんたが救った世界は、だいぶやかましくなってるぜ。
だから、なぁ。
目を開けて、直に見て見なよ。
ジジイ。
あんたにゃその義務があるぜ。
相変わらず胸糞わりぃことは多いが、ま、馬鹿笑いする奴もそれなりに増えてきてんだよ。
そういう世界を目の当たりにして、あんたがどんな顔をするのか。
目を丸くするのか。笑うのか。怒るのか。泣くのか。
なんだっていいんだ。
俺は、いつまでも、いつまでも、待ち続けるからよ。
何日でも。何年でも。何十年でも。
あんたの表情が変わるところを見て、指さして笑ってやるんだ。
なあ。
アーカロト・ニココペク。
俺のダチ公。
【絶罪殺機アンタゴニアス 第一部/完】