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山百合よ法師の昔語らんや

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    2年前の7月27日の写真です。石動山ゆりです。
    いっとき、絶滅しかけたのを、地元の方々のご苦労に
    より、私たちも楽しむことが出来るようになりました。すばらしく華やかですね。今年訪ねた時は、まだ蕾でした。
    百合よ咲けイスルギ法師の骸抱き
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    イスルギの法師の名前秋雀

    石動山を巡り1580年前後激しい戦いがあった。
    単純化すれば上杉と織田。謙信が亡くなったり、信長が亡くなったり、遊佐、温井、長、佐々、が絡んで、ちょっとややこしい。おさらいしてみましょう。
    七尾城には、畠山義春が2歳で後を継ぎ、1577年に病死。170年の歴史が終わる。室町の名門の分家の畠山氏は京の都の雅な文化の一端を七尾の町にもたらした。長谷川等伯の名前を知らない者はいない。
    主人のいない七尾城は、織田に組もうという長続連、綱連父子、上杉と組みたい遊佐、温井。長一族は連龍を一人残して絶える。そして、謙信に門が開かれた。
    1577年の十三夜、上杉謙信が七尾の城で
    霜は軍営に満ちて秋気清し・・・
    と詠んだ。(後世の作だという話も。)
    1578年謙信が急死。七尾城は温井の手に移り
    その2年後織田軍と連龍が占領。
    1582年小丸山城に利家が入る。
    信長、本能寺で亡くなる。ここではまだ、利家と、佐久間、佐々成政は協力関係にある。
    さて、荒山砦と石動山が舞台になります。
    温井と石動山の法師が荒山に陣取る。
    が、利家が攻め、砦は落ちて、石動山の宿坊は焼き払われた。(佐々成政については、いずれまた)

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    ここに温井が陣取ったのですね。
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    復元された大宮坊 礎石もある。
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    楽しいですよ。展示物。仏像やら、曼荼羅などなど。お薬作ってイスルギ法師は、まじないやら祈祷やら村人たちに慕われた反面、再興後、一軒あたり3升の知識米を徴収する権利のお墨付きを貰って、秋雀と恐れられたんですって。
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    伊須流岐比古神社
    近くに石動山の名の由来の動字石があったはずなのに
    見過ごした。あらら。空から降って来たそう。
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    泰澄開山だそうです。1300年前。がそれ以前のものに仏教が加味されたのかも。天台そして真言密教へ。
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    最盛期には360の院坊に3000人の修行僧がいたそう。
    石動山は、2度焼き討ちにあっています。一度目は南北朝時代で、建武政権方 越中守中院定清を匿って焼かれたそうです。2度目の焼き討ちの後、前田により、再興されたものの、明治の廃仏毀釈で3度目は焼き払われはしませんでしたが、打ち壊されました。
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    修験の山だったのが分かります。
    ちなみに不動滝の滝開きは、7月5日。
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    麓のここは、天日陰比咩神社です。茅の輪が用意されている季節に訪れました。すぐ横の道を行くと石動山に着きますが、工事中で通れませんでした。
    七つの道があるそうです。富山の方が表参道で石動山の宿坊は富山を正面に建てられていたといいます。
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    能登二ノ宮ですね。一ノ宮は、気多大社。石動山の伊須流岐比古神社が二ノ宮だったこともあるそうです。
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    邑知潟地溝帯は眉丈山と宝達山そして石動山にはさまれ、その歴史は古く、いずれ訪れたい遺跡が沢山あります。その話はいずれまた。古墳もいっぱい。
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    いつもの狛犬鑑賞。子犬のような狛犬。
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    顔はオッサン顔だけど。
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    小さい川ですね。

    邑知潟、堤防の決壊で酷いことになりました。干拓前はこんなだったのかと思うくらいの水浸しでした。早く元通りになって、トキの飛ぶ姿がみたいですね。

    今日は、この辺で。
    またね。

     
     

    Hiromi

     
     
    鳥・花・蝶々🦋 未年生まれ、牡羊座、迷える子羊。 必要に迫られ始めた散歩のお供にカメラを携え、花とりわけ、小さい花を撮り貯めました。花のない冬は、鳥を、花の季節は、花にとまる蝶をと興味は尽きません。 素人ながらに感じる美しさや、驚きを、共感してくださる方がいるなら、幸いです。

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