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あなたの罪はキリストより強いのか ローセニウス『日ごとの黙想』10月28日

    文献情報

    Rosenius, Carl Olof. Betraktelser för hwar dag i året. 1873.

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    イエス・キリストによって、私たちは信仰により、今立っているこの恵みに近づく道を得ています。(ローマ人への手紙 5章2節)

    近づく道、恵みへの入り口ということばは、哀れな罪人にとって天の慰めに満ちたことばです。聖書は、私たちがこの恵みにいつでも近づけることを教えています。使徒はほかの箇所で「神に近づくこと」、あるいは「キリストを通して御父に近づくこと」と言います。ヘブル人への手紙10章ではこれを、イエスの血によって大胆に聖所に入ることと呼び、「イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのためにこの新しい生ける道を開いてくださいました」と言います。ああ、なんという永遠の慰めでしょう。この近づく道、恵みの御座へ進み入るこの自由、垂れ幕を通るこの新しい生ける道が、いつも私たちに開かれているのです。

    これこそがどんな場合にも私を助けます。自分の状態について何を見いだしたとしても、たとえ今まで実は信じておらず、ユダやあの魔術師のように偽っていて、欺かれていたとわかったとしてもです。「苦い胆汁と不義の束縛の中にいる」と言われたあの魔術師でさえ、恵みに近づく道を持っていました。使徒が「悔い改めて神に祈りなさい。心に抱いた思いが赦されるかもしれない」と言ったからです。「わたしはあなたを口から吐き出す」という厳しいことばを受けたあの「生ぬるい」者でさえ、なお恵みへの入り口を持っていました。主が続けて「わたしはあなたに忠告する。わたしから金を買いなさい」と言われたからです。

    ですから「今日」と言われている間は、どんなことでもまだ助かる道があります。私たちはいつでも恵みに近づけるので、今日からこの恵みへ逃れ始めることができるのです。使徒もこの近づく道を根拠に、こう勧めています。「ですから私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、折にかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」

    すべては、私たちがこの近づく道をただ「イエス・キリストによって」持っていることにかかっています。私たちには、私たちの弱さに同情することのできる大祭司がおられます。この「永遠の大祭司」は「変わることがない祭司職を持っておられます。したがってイエスは、いつも生きていて、彼らのためにとりなしをしておられるので、ご自分によって神に近づく人々を完全に救うことがおできになります」。私たちが信仰によって絶えず恵みのうちにとどまっていられるのは、ひとつには恵みにいつでも近づけるからであり、もうひとつには私たちが恵みをただ「私たちの主イエス・キリストによって」持っているからです。

    こうして、あの大きな慰めに満ちた真理が聖書によって確かにされ、裏づけられています。私たちがキリストを信じ続け、このお方から完全に離れ去らないかぎり、どんな欠けや弱さも、良いときと悪いときのどんな移り変わりも、私たちが恵みのうちに立っていることを取り消したり揺るがしたりはしません。むしろ旅の途中で起こりうるどんな罪深いことも、ほかでもない神の恵みの備え、すなわちキリストに基づく恵みの契約によって癒やされ、打ち消されるのです。すべては永遠の大祭司によって癒やされます。この方はまさに、私たちのために御父の前でとりなす方となるために、ご自分の血をもって天に入られたのです。ヨハネはこう言っています。「私の子どもたち。私がこれらのことを書き送るのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。しかし、もしだれかが罪を犯したなら、私たちには、御父の前でとりなしてくださる方、義なるイエス・キリストがおられます。」このとりなす方とこの恵みの契約は、私たちの生涯に起こりうるどんなことよりも力強いのです。

    御霊の光が信じる者たちのうちにある罪深いものをすべて明らかにし、とがめるとき、彼らのうちにはこの信仰に対するさまざまな厳しい試練が生じます。ある人は激しい誘惑に倒され、今や良心に恐ろしいおどかしを感じて嘆きます。「私ははっきりと罪に落ちてしまった。もう恵みから切り離されているのだ。」別の人はしつこく続く誘惑の中で嘆きます。「私の心は偽りに満ちている。罪を愛し、移り気で、締まりがない。私は正しく目を覚ましていない。」また別の人は長く続く渇きの中を歩んでいます。内側は何も感じず死んだようで、眠っている人のようです。嘆いてはいても、どうすれば本当に目を覚まし、神を恐れる者になれるのか、そのすべを知りません。私たちがアダムから受け継いだあらゆる腐敗は、御霊がそれを照らしてとがめるとき、さまざまな形で感じられるようになります。このみじめさのすべてが恵みに覆われることなど、ありうるのでしょうか。

    そうです。もし恵みが少しでも私たち自身にかかっているなら、それはありえないでしょう。ここで明らかになるのは、私たちが恵みのうちに立っているのはただ「私たちの主イエス・キリストによって」である、ということばをあなたが信じているかどうかです。あなたはこのみじめさのすべてを抱えて恵みの御座のもとに伏しています。それが恵みに覆われうることを疑うなら、あなたは二者択一を迫られます。自分の信仰の一部を自分の中の何か良いものの上に建てているか、さもなければ、神の御子は完全な救い主ではなく、御父の前で完全にとりなす方でもないと言うかです。

    ですから、この点はこのうえなく重要です。「イエス・キリストによって」ということばをしっかり握りしめなさい。そして、神の前での私たちの義と平和は、私たちのために神の御前におられるこの方のうちにだけある、という真理を心に深く刻みなさい。そうでなければすべては失われ、このことについて聖書が証ししていることもすべて偽りになってしまいます。もし義が一部でも律法から来るのなら、「キリストの死は無意味になってしまいます」。「もし相続が律法によるのなら、信仰は空しくなり、約束は無効になってしまいます。」こうして私たちは、まことに神のもとに永遠の恵みを持っています。それはただ「私たちの主イエス・キリストによって」与えられるのが確かであるのと同じほど、確かなのです。

    そうだ、幸いなのは、生きるときも死ぬときも
    いつも恵みに身をゆだねてきた魂。
    罪人が平安を得るのは、ただこの恵みのうち、
    自分の誇りをすべて失った罪人が。
    だから、とこしえに恵みを感謝せよ。

    あとがき

    ローマ書 5:2の新改訳2017は「今立っているこの恵みに導き入れられました」。この黙想は tillgång(近づく道)という語そのものを主題にしているので、 Rosenius の文意を汲んで「恵みに近づく道を得ています」にしている。

    今夜スウェーデンのかたとお会いするので、話すついでにと1週間弱読ませていただきましたが、これはよい出会いでした。不勉強でたいして本が読めていませんが、久しぶりに魂を涵養する本に出会いました。折を見て、また続きを出せたらと思います。

     
     
    早稲田大学大学院修了。欧米の優れた複数の注解書を参照し、聖書の言葉を日本語でわかりやすく解き明かします。一人でも多くの方が神の言葉により霊的に目覚め、生きる希望と導きを得ることが、私に課せられた召命です。

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