メインコンテンツへスキップ
見出し画像

幸福の単位

     長さにはメートルがあり、重さにはグラムがあり、熱にはカロリーがある。では幸福の単位は何か。
     十九世紀の経済学者フランシス・エッジワースは大真面目にこれを考え、幸福を計測する「ヘドニメーター(快楽計)」なる装置を夢想した。
     装置は完成しなかったが、野望は死ななかった。
     効用、満足度、ウェルビーイング指数、五段階の星評価。私たちは今も、単位のないものに目盛りを刻もうとし続けている。そして問題は、測れないことではない。測れないものは、この社会では「存在しないこと」にされる——そちらが本題である。

     まず、測定の失敗記録から。

     カーネマンらは、人々に大腸内視鏡検査の苦痛を逐一報告させ、後日の記憶と照合するという実験を行った。結果、体験の総量と記憶の評価はまるで一致しなかった。
     人は苦痛の絶頂と終わり際だけで全体を採点し(ピーク・エンドの法則)、持続時間を無視した。検査時間が長くても、終わり際が穏やかなら「マシな体験」として記憶される。
     つまり幸福には、体験している自己と記憶する自己という、換算レートの合わない二つの通貨が流通しており、どちらを本物とみなすかで人生の最適解が変わってしまう。

     単位が定まらないのは技術の未熟ではなく、対象の本性なのだ。

     それでも社会は測る。
     測らないと予算がつかず、政策にならず、KPIにならないからだ。
     ここで発動するのが、英国の経済学者チャールズ・グッドハートの名を冠した法則である。
    「測定値が目標になった瞬間、それは良い測定値であることをやめる」
     テストの点を目標にすれば点を取る技術だけが育ち、滞在時間を目標にすればユーザーを画面に縛る設計が進化する。
     数値は最適化されるが、数値が代理していたはずの本体——学び、幸福——は置き去りになる。

     単位を与えるとは、ハックの標的を与えることでもあるのだ。

     そして、この「測れないものは存在しない」ルールの最大の被害領域が、ケアである。
     ニュージーランドの元国会議員マリリン・ウォーリングが『If Women Counted』で暴いたとおり、GDPという世界標準の物差しは、市場で取引されないものを計上しない。
     赤ん坊を育て、老親を看取り、家族の食事を作る労働は、経済統計上はゼロ——同じ行為を他人に金銭で提供した瞬間、GDPに加算されるにもかかわらず、である。
     各国の試算では、無償ケア労働を金銭換算するとGDPの1〜4割に相当するとされる。国家経済の巨大な土台が、単位を持たないという理由だけで、帳簿の外に置かれてきた。
     「あなたは働いていないでしょう」という台詞は、事実の記述ではなく、物差しの欠陥の音読なのである。

     では、単位なき世界をどう生きるか。

     まず第一に、測れるものを測りすぎないこと。
     歩数、いいね、年収、偏差値——数値は便利な代理人だが、グッドハートの法則どおり、代理人に忠誠を誓うと本人を見失う。
     数値が上がったのに虚しい時は、代理人が本体を裏切った合図である。

     そして、自分の帳簿には、GDP方式ではなくウォーリング方式を採用すること。誰かを世話した時間、場を保った労力、聞いた話——市場が値札をつけないものを、自分の記録からまで抹消する義務はない。
     計上されないものを自分だけは計上しておく。それが、他人の物差しで自分を廃棄しないための最低限の経理である。

     最後に、幸福の申告は、記憶する自己だけに独占させないこと。
     ピーク・エンドの法則は、地味に続いた良い日々を記憶から蒸発させる。
     日々の小さな快を書き留める習慣が実証研究で効果を持つのは、体験する自己に発言権を返す手続きだからだ。

     単位がない、とは欠陥ではない。
     値札がつかないものだけが、市場で買い叩かれずに済むのだから。

     測れないものを抱えて生きるのは不便である。だが人生の中身が全部計測可能になった暁には、あなたは最適化の標的になるだけだ。

     数えられないものの側には、まだ自由が残っている。


    帰って来た #逆説から考える生きることシリーズ
    #人生はだから面白いシリーズ
    #オーディオブック #聞く読書 #音読 #朗読 #耳活


     
     
    https://note.com/big_hilo 世の中の綺麗事の裏側にある不都合な真実を言語化しようとする実験的note。幸福の土台は感情論ではなく冷徹な合理性にあるのでは!?そんな少し皮肉で限りなく自由なコラムを模索中。読後、あなたの常識が少しだけ書き換わるかもしれません。

    あなたへのおすすめ