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誰のために推しているのか

    前回の推し活は…

    誰のために推しているのか
    ――“承認”と“共同体”のねじれた熱狂

     「推しは推すために推す」──そう言い切る者たちは、しばしば無償の愛を語る。「見返りなんて求めてない」「ただ、幸せでいてくれたらそれでいい」。だがその言葉の裏には、奇妙なねじれがある。もし推しが“誰にも見られずに”活動を続けたとして、それでも推す者は存在し得るのだろうか。

     “誰のために推しているのか”。それは推し活という営みの根底を揺るがす問いだ。

     エンタメ社会学者の中山淳雄の言う「推しエコノミー」とは、単なるファン活動の可視化ではない。そこには「誰かに見られていること」が織り込まれている。
     SNSに写真を上げる。投票結果を共有する。ファンレターを自慢する。「私は、ここまで推しています」と示すことが、すでに推し活の一部なのだ。つまり、“自己表現”という形をとった“自己証明”である。

     承認されたいのは、実は“推し”だけではない。ファンもまた、自分の愛を承認されたいのだ。

     たとえば、古参アピール。
     初期から応援していたことを示すために、絶版グッズや初期イベントの記録を引っ張り出してくる。あるいは、「過激な課金」や「全通(全イベント参加)」という行為が、ファン同士のヒエラルキーを構築する。
     中山氏が語るように、推し活は“感情の流通”であると同時に、“共感の市場”でもある。

     そこでは“愛の総量”が競われる。つまり、「どれだけ推しているか」という尺度は、もはや内面の感情ではなく、外部に可視化された行動の蓄積で決まる。SNS上のファンアカウント、グッズの陳列写真、リアルイベントの参加履歴。それらが“愛の通貨”となり、他者からの「いいね」を利息として生む。

     それは本当に“自由な愛”なのか?

     誰かの視線を意識しながらの愛は、いつしか義務になる。
     「推しが苦しんでいるなら、私も苦しむべきだ」
     「あの人はもっと課金している、自分は足りていないのではないか」
     共感がプレッシャーになり、推し活が「自分を搾る行為」に変わっていく。感情という無限の資源が、いつしか“燃え尽き”を呼び寄せる。

     中山氏が注視するのは、まさにこの“経済と感情の結節点”だ。

     承認されるために推す、という回路は、経済的にも非常に効率がいい。
     ファンは自発的に課金し、布教し、周囲の推し活参加を促す。その構造は、いわば“感情によって自走する広告装置”であり、従来のマーケティングを超えた再帰的拡張性を持っている。
     だからこそ、推し活は強い。だが同時に、それは「誰のための活動なのか」という問いをどこまでも曖昧にしていく。

     本当に“推しのため”なのか。あるいは、“推している自分”を社会に位置づけるためなのか。それとも、その両方なのか。

     人は、何かを愛することで“自分”という存在を証明しようとする。推し活とは、そのプロセスをあまりにもクリアに可視化してしまった行為なのだ。そして皮肉にも、それが“愛の不純性”をさらけ出す。

     だからこそ面白い。

     推し活とは、愛の純度を疑いながら、それでも推さずにはいられないという矛盾に満ちた行為だ。誰のためなのか、と自問しながら、それでもハッシュタグをつけ、投票を呼びかけ、イベントに足を運ぶ。その姿に、少しだけ人間らしさを感じてしまうのは、きっと私だけではないはずだ。


    次回は「“推しの卒業と、ファンの喪失”」というテーマで、“終わり”をどう受け入れるのか、感情経済の断絶と再生について考察していきます。引き続き、お付き合いください。

    そして、ぜひ ♡ を押して…いや推していってください。

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    https://note.com/big_hilo 世の中の綺麗事の裏側にある不都合な真実を言語化しようとする実験的note。幸福の土台は感情論ではなく冷徹な合理性にあるのでは!?そんな少し皮肉で限りなく自由なコラムを模索中。読後、あなたの常識が少しだけ書き換わるかもしれません。

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