
初ラルフ・ローレン〜アメリカ郊外の夢〜
先日ラルフ・ローレンのシャツを買いました。
これまで長いこと着ていたシャツが破れてしまい、急いで買わなければ着るものがない、という状況に陥り、近所のセカンドストリートに駆け込んで見つけたものです。
私は同じ服を高頻度で着用し続けることが多くて、そのせいで早くに破れてしまうのですが、そうやって破れてから初めて服を買いに行くという、自転車操業のようなワードローブ状況で過ごしています。
別にこれを良しとしているわけでは全くなくて、できることなら一週間くらいは毎日違う格好で過ごしたいものですが、どうもうまくいきません。
服屋にあるまじき事態だと思うのですが、そうなってしまう理由としては、気に入った服を見つけることの労力の大きさがありますね。
職業柄、下手に目が肥えているぶん、文脈的にもデザイン的にも、わざわざ自分が買う理由を持った服に出会うのはなかなか難しいです。
なんとなく良いと思える服が見つかる場合もあるのですが、どちらにせよそれは奇跡というほどではないにしても、それなりの確率の世界に身を投げる必要があります。インスタにもなかなか登場してくれないんですよね。
まあそれをダルがっている間に、着ている服が破れてしまうというわけです。
てなわけで、いつも着ている服を失った精神的半裸状態の私が駆け込んで買ったのが、これなんですけど。

ポロ・ラルフローレンの香港製チェックワークシャツです。
実はわたくし、ラルフ・ローレンのウェアを買ったのはこれが初めてなんです。
古着屋ではかなり珍しいタイプだと思うんですけど、そうなんです。
とはいえラルフ・ローレンというブランドが嫌いというわけでは全然なくて、むしろそれなりの興味がありました。
お店に行ってみたりもしていましたし、そのたび素晴らしい内観の作り込みに感動したりしていました。ただ買いたいと思える服に出会えなかっただけのことです。
では服を持っていないにも関わらず、私が持ち続けた関心とはどこにあったのかというと、それは内観の作り込みとも関わるのですが、このブランドを認識することで私の中に想起される「イメージ」と、その蠱惑的なまでの強さについてでした。

ラルフ・ローレンが放つ、強いイメージ。
それは文化、生活様式、空間、そして衣服、それらを統合したものとして私たちの中に届いてきます。
上質で、歴史の厚みのあるイメージ空間が、まるで実在するかのように感じられます。

しかしこのブランドが生み出すイメージというのは、開拓時代や、Ivyリーグ、ウェスタン、イギリスの貴族などという、明確にアメリカの歴史の一部とは呼べるものの、それぞれはバラバラの時代・文化を引用し、再統合したものです。
設立も1967年であり、当然ではありますが、元となった文化と直接の関わりはありません。
つまり開拓時代の労働者にも、かつてのIvyリーガーにも、カウボーイにも、イギリスの貴族にも、ラルフ・ローレンが着られたことはなかったのです。
しかしなぜ、バラバラな引用によって作られたはずのブランドから、統一された文化や歴史の厚みのようなものが伝わってくるのでしょうか。
その不思議さが、私の興味の対象でした。
そして私はいま、それがある人たちの見た「夢」の力によるものではないか、と思っています。

『サバービアの憂鬱』(大場正明 著)という本があります。サバービアとは郊外を指す言葉ですが、単なる住宅地としての郊外だけでなく、そこに住む人々や生活様式、風俗、文化的イメージまでを含んだ言葉です。
ここでは、50年代以降にアメリカにおいて激しい勢いで進んだ郊外化と、そこで生まれた生活様式やコミュニティについて、主に郊外を舞台としたフィクション作品を分析しながら語られています。
この本を読んだことで、ラルフ・ローレンが生み出す「イメージ」とは、アメリカ郊外の生活者たちの見る「夢」、もしくは「理想」なのだという見立てを得ました。
つまりある人たちというのは、アメリカ郊外の生活者たちのことです。

一軒家を構え、庭の芝生を手入れし、同じように高い生活レベルの近隣の人々と交流し、週末にはバーベキューをする。私がここで思い浮かべているのは、そういう生活様式としてのアメリカ郊外です。
このような郊外のイメージは50年代以降に一般化したものですが、『サバービアの憂鬱』において、そのルーツは19世紀初頭に遡るとされています。
本文には、その黎明期における郊外の邸宅様式について、基本となる要素が2つ挙げられている箇所があります。これは、郊外という空間が初めから抱えていたイメージの成分だと読むことができます。一部引用します。
ひとつは、イギリスからアメリカに渡った初期の移民が、新天地に本国にあった荘園の邸宅とか別荘のイメージを植え付けたということ。もうひとつは、人々がフロンティア・スピリットに駆り立てられた開拓時代の土地の所有や生活が、一戸建ての独立した住宅に結びつき、アメリカン・ドリームの一端を担っているということである。
ここにある2つの基本的要素、イギリス本国のイメージと、開拓時代。
これらの要素は、ラルフ・ローレンが衣服のデザインにおいて引用するモチーフと一致しています。
つまりラルフ・ローレンが引用する、英国的な上流階級のイメージや、開拓時代的なアメリカのイメージは、アメリカ郊外という空間の中で、すでに結びついていたものなのではないか、ということです。

また一方で、本が主題とする1950年代以降には、それ以前にはなかった、郊外の内部に特有の文化が生まれたとされています。
ラルフ・ローレンの設立は1967年。言うまでもなく、急激な郊外化以降の世界において生まれたものです。
ブランド自体はニューヨークにて設立されましたが、都市部でのみ消費されるようなものではなく、ショッピングモール、のちにはアウトレットといった、郊外的な商業空間にも広く流通しうるブランドでした。
それは、ラルフ・ローレンの体現するものが、都市的なモードというよりも、上質な暮らしのイメージだったからでしょう。
50年代ごろの郊外居住者に向けられた家電などの製品広告では、「豊かな生活」という理想が設定され、それを叶えるものとして商品がプレゼンされていました。そのような宣伝方法は、ラルフ・ローレンが衣服からインテリアにまでおよぶ製品展開を行うことと、似た想像力によるものだと言えます。
ちなみに『ラグジュアリー産業: 急成長の秘密』(ピエール=イヴ・ドンゼ著)では、ラルフ・ローレンが他のラグジュアリーブランドと比べて、高い比率でアメリカ国内にて消費されていることが示されています。
このような流通・消費のあり方からも、アメリカ郊外とラルフ・ローレンとの親和性を推測できます。

ある時期のアメリカにおいて、郊外での生活は強く夢見られるものでした。
経済発展と住宅ローンの普及によって、手の届くようになった一戸建ての邸宅。
テクノロジーの発展によってもたらされる、快適な生活と消費。
そのような身近にかなえることができる「夢」としての郊外生活。
文字通りアメリカン・ドリームとして、勝ち取るべき豊かさを象徴していました。
しかし引用した本のタイトルに「憂鬱」とあるように、この本では50年代以降の郊外の発展における、その内部のネガティブな側面が強調されています。
それは郊外居住者が、現代的で快適な生活を営むことで幸せと安心を感じる一方、その閉鎖性と居住者の同質性、そして歴史との断絶によって、人々のアイデンティティが揺らいでしまうことについての分析と言えます。
つまりアメリカ郊外とはそれ自体「夢」として欲望されつつも、その内部では何かが「毀損」されていました。
そして私はこのとき、「毀損」を補うための「夢=イメージ」が、必要とされたのではないかと思うのです。
ここでラルフ・ローレンに戻ってきます。
快適な生活を享受しながら、しかしむしろそのことによって、自らの生が世界との関わりを失っていることを不安に思う。だからどこかで自分が前進するイメージと、寄って立つことのできる歴史との繋がりを自らの中に保っていたい。
この相反する心理の、両方に対応するものとしてのラルフ・ローレン。
郊外での上質な生活への「夢」は、上質な衣服に対応し、前進するイメージや歴史との繋がりを求める「夢」は、このブランドが引用する開拓時代やイギリスの貴族、Ivyリーガーやウェスタンのイメージに対応している。
豊かさを享受したいという意味で欲望される「夢」と、そこにありついたどん詰まりで見る外の世界への「夢」。
そのような二重に見る「夢」の形として、ラルフ・ローレンはあったのではないか。
そしてだからこそラルフ・ローレンの描くイメージの強度は、これほどまでに高いのではなかろうか。
これが私の言いたかったことです。

このようなアメリカ郊外の夢は、アメリカに敗れた国である日本の、それも田舎に住んでいた私のもとにも届いていました。
おそらくは、親に数回連れて行かれただけのラルフ・ローレンを通して。
上質で暖かい感じのイメージ、木製の什器や壁で構成され、暖色の電球の光で照らされた店内、そしてネイビーの背景の上で輝く金色のロゴ。
それらは幼少の頃に抱いた感覚の、芯に近い部分にある記憶として残っています。
やはり記憶に残るこのイメージの強さに、改めて驚きを禁じ得ません。
ただ、その強さに惹かれながらも、私は長いあいだラルフ・ローレンの服を持っていませんでした。
それはおそらく、ラルフ・ローレンが、このブランドが引用するような実用的な衣服とは根本的に出自の異なる、“ファッションブランド”だったからです。
ファッションブランドであるということは、その内部に様々なものを統一するための、固有の原理を必要とするということでもあります。
ラルフ・ローレンにおいて、そのひとつは商品の規格だと言えます。
私はこの規格に対して、どこか他の古着から浮いているという印象を持ってきました。
たとえば古いワークウェアは、ブランドが違っていても、その時代の素材や縫製、シルエット、生産背景を共有しています。だからそれらは、同じ時代の服として自然に並ぶ。
しかしラルフ・ローレンの服は、そうした時代の制約の中から生まれたものではありません。さまざまな時代の衣服を参照し、それらをブランドの規格の中に収め直したものです。
このような操作によって、時代や文化があやふやになり、衣服がどこに属するものなのかわからなくなる。
しかし普通、ファッションブランドのウェアに対して、他の古着から浮いているなどという感想は持ちません。出自が違うのだから、それが当たり前だからです。
でもラルフ・ローレンのウェアに対しては、そのような感想を抱きます。
それはむしろ、古着とあまりにも似ているからこそ、その違いが浮いて見えるということなのだと思います。

しかし現代の古着市場においてはもはや、ラルフ・ローレンはそれ自体、「本物性」とでも呼べるようなアウラを獲得しています。
それはブランドが歴史と呼べるほどの時間を積み重ねてきたことと、作られた服が、それ以前の古着に連なるものとしての価値を持っていたからなのでしょう。
しかし私にとってラルフ・ローレンの服は、オーセンティックな古着だとは思えません。
むしろ古着のフェイクであることと、ブランドが生み出すイメージの強度を真に受け、“ファッションブランド”のウェアとして見、買うということをしたかった。
この度それができる対象が見つかったというわけです。
だからこれは、私にとって初めて買ったラルフ・ローレンのシャツであると同時に、初めてラルフ・ローレンをラルフ・ローレンとして買えた、ということでもあります。
ハッピー。
参考リンク
ここまで、ラルフ・ローレンがアメリカ郊外の「夢」とどのように重なっているのかについて書いてきました。
そして私は、この見立ての先に、自分なりの郊外観を表現したいと思いました。
自分が育った日本の田舎に、アメリカ郊外の夢が届いていた。
ではその夢の外にはなにがあるのか。
ショッピングモールの塗装が剥げ、黒ずみ、裏側にはゴミが溢れている。
私がやっているリメイクブランド「PICK UPPLE REAL WORLD」は、そのような、シミュラークルが崩れ、「現実」が露わになった地点を見つめる活動です。
服をリメイクすること。
すでに存在している服を解体し、組み直す過程で、世界の裂け目に触れ、あらたな現実へと統合すること。
「PICK UPPLE REAL WORLD」は、そのような「現実」と対応するブランドです。