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アナログ派の愉しみ/本◎中野孝次 著『「閑」のある生き方』

    今年94歳の父親から
    手渡された一冊


    オレはもう3回読んだから、お前にやる――。先だって94歳の父親の住まいに出かけた際、その言葉ととともに一冊の本を手渡された。

     
    中野孝次 著『「閑(かん)」のある生き方』

     
    わたしは啓発書のたぐいを読まないので(人生に悩むのが性に合っているのだろう)断ろうとしかけたところ、ぱらぱらめくってみると、すべてのページにびっしりと赤線が引っ張ってある。父親が本当に熟読したことが伝わってきたので、ここはありがたく頂戴して持ち帰った。

     
    あらためて自分の机で開く。奥付によれば2003年の発行だから、ドイツ文学者でエッセイストの著者が2004年に79歳で世を去る前年の作品だ。古今東西の先人たちの言葉を引用しながら老年の意味を問い直し、人間は多忙な現役時代を終えて「閑」の段階に入ってからこそ真の人生と出会い、真の幸福を得ることができると説く。

     
     過ぎたことは過ぎたこと、いまさら若くて元気だった時をなつかしんだり、壮年の時の失われたのを歎いても意味はないのだ。今を受け入れねばならない。今を受け入れる心さえあれば、老年はそれ自体なんと心ゆたかなたのしい時であるか。
     何をしてもよく、何をしないでも誰かに非難されることはない。自分の好きなことに一日中熱中していられるくらい幸福なことがあろうか。既に社会に対する務めと義務は果たした。今は自分という者一個のために生きるべき時だ。生きることを許されている時だ。〔中略〕わがままとも非常識とも人は言わば言え、自分の好きに生きるのが老年の特権なのだ。そしてそう生きると、老年とはいままでの人生で一番たのしい時だと思うようになった。

     
    父親の赤ペンが花丸をつけた個所だ、あたかも小学校の先生が生徒の作文を評価するように。この本を手にしたとき70代だったはずの父親にとって、とくに琴線に触れる文章だったのだろう。それが空理空論でなかったのは、以来20年あまり、繰り返し読みながらみずからの血肉として、現在まで「人生で一番たのしい時」を過ごしてきた事実が証している。だからこそ、いまや70代を間近にした息子に伝承しようと考えたのではないか。

     
    そんなふうに得心して本を閉じかけたわたしは、終わり近くのページにさらに盛大な花丸がつけられているのに気づいた。この個所だ。

     
     老年にとってはどんな楽しみでも、楽しみがあるということが必要なのだ。〔中略〕日が昏れるのを待ちわびて、夕方になるといそいそと晩酌の用意をする。鉄瓶に湯を沸かし、妻の用意してくれた酒の肴を並べ、正一合入りの錫の徳利に酒を注ぎ、お燗をするときが、一日の一番心躍るときだ。この気持は酒飲みでなければわからない。
     それが冬ならば、赤く熱した低いガス・ストーブの前に犬二匹がねそべっている。その姿を見、夕刊に目を注ぎながらゆっくりと飲む。おチョコは京都の古道具屋で見つけたお気に入りのもので、これも年齢とともに好みが変る。一合はまもなくなくなるが、まだからだのどこへ入ったかわからない。惜しみ惜しみ二合目を飲んでいるあいだに、ようやく酒がからだの中に動きだしたのが感じられ、気分がよくなってくる。その時分に妻が犬たちの食事を作ってくるので、犬ももう寝そべっていず、こちらの酒の肴をうかがう様子だから、アペリティーフとしてアゴの身を少し与えたりする。
     三合を飲みおわって初めて、とくとくと酒が体内全部にゆきわたったのが感じられ、今日の酒が最高潮に達した満足感にひたる。そしてさらにその楽しさにもう一押しすべく、本当はもっと注ぎたいのだが銚子に半分だけ酒を注いで、一日のとどめとする。

     
    なるほど、思い当たるフシがある。父親は80代になって糖尿病と前立腺がんを宣告されて、いったんはあれこれの食事療法に取り組んだりしものの、ほとほと辟易して、それからはもっぱら楽しく生きることをモットーに開き直った。毎日夕方4時になると入浴してから食卓に向かい、日本酒のお燗ではなく、酸化防止剤無添加の赤ワインを(そのポリフェノールが最もからだにいいと称して)好物の肉料理とたしなみ、やはり「一日の一番心躍るとき」を満喫しているようだ。

     
    中野孝次の名文は、この年齢に至った酒飲みにとってまたとない励ましだろう。もしかすると、父親の本意は、とかく健康診断の数値に右往左往しがちな小心の息子にカツを入れることのほうにあったのかもしれない。
     
     


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    気がついてみたら60代のなかば。これまで出会った本や音楽、映画……からピックアップして、自分なりに解読してみたいと思います。めざすはあっと驚くような大発見ですが、果たしてどうなりますやら。みなさまもご一緒に楽しんでいただけますと幸いです。

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