
忙しくて苦しいときは休まないといけないのか?(教諭時代Ⅱ)
現在、私は公立小学校の管理職ですが、実は、教諭時代は、管理職になりたくありませんでした。というのも、そもそも管理職に全く魅力を感じていませんでした。職員や保護者からいろいろ言われる上に事務ばかりで何が面白いのだろうと思っていました。ほとんどの先生方は、子供との関りに魅力を感じ教職に就いたはずです。先生方、保護者、文書、メールを相手に仕事をしている管理職は気の毒にさえ思っていました。
しかし、教職としてのキャリアアップは図っていきたいと思っていました。そのため、どうやったらキャリアアップが図れるか考えていたところ、大学教員の道があるじゃないかと思ったのです。
しかし、大学教員になるには、大学院に通って修士以上の学位が必要だということを知りました。そこで、私は、教育委員会派遣で大学院に行くことを思いつきました。そして、校長に掛け合い、推薦してもらったのですが、教育委員会から推薦がもらえず、結局ダメでした。
私は、悔しさのあまり、教育委員会には見切りをつけ、自分で勉強して受験しようと思いました。翌年、地元の国立大学の大学院の募集があったため、そこを受験し、幸いに合格し、新しい赴任先では、6年担任をしながら夜間や長期休業に大学院に通うといういわゆる二刀流生活を送りました。
正直なところ、学校の私への配慮は全くなく、30人以上の学級の6年担任で生徒指導主任、研修主任をするはめになりました。しかし、仕事と学生の二刀流生活は、毎日、刺激的で、忙しいながらも、やりがいを感じていました。学んだことを仕事に生かせることは、私にとって何よりの喜びとなっていたのです
しかしです。こんな生活が3年目に入り、大学院の講義のコマ数は減ってきたものの、研究室にこもり修士論文を書かなければなりませんでした。私生活では、わが子の少年野球チームの遠征の送迎に四苦八苦しながらもコツコツと修士論文を仕上げる毎日でした。もちろん学校では、30人以上いる5年生の学級担任と研修係、学年主任というなかなか忙しい校務分掌をこなしていました。
そして、夏休みです。朝から研究室にこもり、修士論文を書いたり、当時、勤めていた学校の学力を分析したりしていました。もともと数字が苦手な私は、データを収集し、分析するという地道な作業に嫌気がさしていました。その地道な作業をしている間、頭の中では「ガーン、ジワジワー」という音が何度も鳴り響いていました。私は、「何だろう。この症状は。」と不思議に思っていたのですが、「これぐらい大したことない。」と苦手なデータ収集と分析を続けました。とうとう、めまいで苦しくなったので、帰宅するために研究室から出ました。しかし、そこから足が鉛のように重くなり、四つん這いなりながらやっとのこさで自分の車に向かいましたが、途中で力尽き、妻に電話をし迎えを要請しました。妻は、今倒れている場所が分からないから救急車を自分で呼べと言ったのです。仕方なく私は、苦しみながらも119番し、何とか指令官に場所を伝え、救急車に迎えいに来たもらいました。私はそのとき、救急救命士に息苦しさのあまり「苦しい」「死ぬ」を連発していました。その後、病院に搬送されたのですが、相変わらず「死ぬ」「何とかしてくれ。」と連発していました。しかし、生意気で若い医者から「静かにしろ」と一蹴されてしまいました。
そこから、しばらく私はベットで寝ており、目が覚めると妻と息子がベットの横にいました。医者は、メニエ―ルと思ったらしく耳鼻科に行くよう勧めました。しかし、若く生意気な医者の話を信じることはできず、これまで自律神経失調症に患っていたことから精神科がよいと考え、精神科医に診てもらいました。すると診断名はパニック障害。その後、私は年に数回、パニック障害の発作に悩まされることになります。
ただ、私は、仕事を休みませんでした。前述したとおり、忙しかったのですが、仕事と大学院との二刀流生活は、大変、刺激的だったので、休む気にはなれなかったのです。そのときは、48歳でした。まだ、体力があり、仕事をこなせていたので、その頃の私は、まだまだ忙しくて苦しいときは、休まないといけないとは思っていなかったのです。