
#シロクマ文芸部 私が帰ってくるのを、私が待っていた~短編小説~
小牧幸助さんのお題で書きはじめる企画「待つ時間」に参加です。
締切は9/23(水)23:59だそうです。よろしくお願いします。
※この物語はフィクションです。
待つ時間には、名前がない。
誰かを待っているわけではない。
電車を待っているわけでも、返事を待っているわけでもない。
それでも私は、毎日何かを待っていた。
会社を辞めてから、半年が過ぎた。
朝は、目が覚めた時間に起きる。
急いで支度をする必要もない。
決まった場所へ向かう必要もない。
自由になったはずだった。
けれど、自由というものは、思っていたより音がしなかった。
会社員だった頃は、やりたいことがたくさんあった。
時間ができたら、本を読もう。
いつか、文章を書こう。
興味のあることを学んで、小さな仕事も始めてみよう。
そう思っていた。
退職したら、きっと動き出せると思っていた。
けれど、いざ時間ができると、私は何も始められなかった。
ノートを買っても、最初の一行が書けない。
講座を申し込んでも、始める日を決められない。
パソコンを開いても、必要のない情報ばかり眺めている。
明日から。
来週から。
もう少し気持ちが整ってから。
そうやって、いくつもの日を見送った。
ある雨の日、押し入れの整理をしていた。
古い段ボールの底から、薄い青色の日記帳が出てきた。
表紙の隅に、小さなシールが貼ってある。
私はすぐには思い出せなかった。
けれど、ページを開くと、見慣れた文字が現れた。
若い頃の私の字だった。
丸みがあって、少し右上がりで、今よりもずっと勢いがある。
日付は、二十五年前になっていた。
その頃の私は、会社の仕事に追われていた。
毎日をこなすことで精いっぱいで、自分の将来について考える余裕などなかった。
日記には、仕事の愚痴や、友人と食べた夕食のこと。
買いたかった服のこと。
休日に見た映画のこと。
他愛のない言葉が並んでいた。
ページをめくっていくと、ある一文で手が止まった。
「いつか、自分のことを好きになれますように」
私は、その文字を何度も読み返した。
書いたことを、まったく覚えていなかった。
自分のことが好きではなかったのだろうか。
当時の私は、毎日をそれなりに楽しんでいた。
笑っていたし、友人もいた。
仕事だって、投げ出さずに続けていた。
それでも、どこかで自分を置き去りにしていたのかもしれない。
ちゃんとしなければ。
迷惑をかけてはいけない。
期待されたことには応えなければ。
そんな言葉を、自分に何度も言い聞かせていた。
日記の最後のページには、短い文章が残っていた。
「いつか、私らしく生きられる日が来るのかな」
私は日記帳を閉じた。
部屋の中は静かだった。
雨の音だけが、窓の向こうから聞こえている。
私はこれまで、会社を辞めたあとに何かを始めなければいけないと思っていた。
せっかく手に入れた時間を、無駄にしてはいけない。
新しい自分にならなければいけない。
そう考えるほど、体が重くなった。
けれど、違ったのかもしれない。
私は新しい自分になるために、急いでいたのではない。
ずっと昔に置いてきた自分を、迎えに行くために時間が必要だったのだ。
何かを始められなかった日々は、何もしていなかった時間ではなかった。
長いあいだ聞こえないふりをしていた声に、少しずつ耳を傾けていた。
疲れたね。
本当は、どうしたかったの。
もう、誰かの期待に合わせなくてもいいんじゃない。
そんな言葉が、静かに自分の中から浮かんできた。
私は日記帳を、もう一度開いた。
二十五年前の私に、返事を書きたくなった。
新しいノートを取り出し、机の前に座る。
しばらく何も書けなかった。
それから、ゆっくりとペンを動かした。
「待たせて、ごめんね」
書いたあと、少し笑った。
誰に謝っているのだろう。
けれど、その言葉は不思議なくらい自然だった。
私はずっと、何かを待っていた。
やりたいことが見つかる日。
自信が持てる日。
誰かに認めてもらえる日。
でも、本当に待っていたのは、そんな日ではなかった。
自分が自分のところへ帰ってくるのを、私自身が待っていたのだ。
窓の外では、いつの間にか雨がやんでいた。
私はノートの次のページを開いた。
何を書けばいいのかは、まだわからない。
これから何をするのかも、決まっていない。
それでも、今日は一行書けた。
それだけで、十分な気がした。
私は立ち上がり、窓を開けた。
湿った風が、部屋の中に入ってくる。
遠くで、子どもの笑い声がした。
私は小さく息を吸い込んだ。
ただいま。
声には出さず、心の中でつぶやく。
ずいぶん長く待たせてしまったけれど。
私はようやく、自分のところへ帰ってきた。
~ 終 ~
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