
#シロクマ文芸部 その人が月を見る理由を、私は知らなかった~短編小説~
小牧幸助さんのお題で書きはじめる企画「月を見る」に参加です。
締切は9/30(水)23:59だそうです。よろしくお願いします。
※この物語はフィクションです。
月を見る。
それが、最近の私の日課になっていた。
会社を辞めてから、半年が過ぎた。
辞めた直後は、やりたいことがたくさんあった。
時間ができたら、あれをしよう。
これも勉強してみよう。
新しいことを始めよう。
そう思っていたはずなのに。
いざ時間ができてみると、何をしたいのか、よくわからなかった。
朝起きても、急いで出かける場所はない。
予定のない平日は、時計の針だけが妙に大きく聞こえる。
そんなある夜、なんとなくベランダに出た。
空に、月が出ていた。
丸い月だった。
しばらく眺めていると、向かいのマンションのベランダに、人影が見えた。
女の人だった。
その人も、月を見ていた。
「あ……」
思わず声が出そうになったけれど、もちろん届くはずもない。
私は部屋に戻った。
次の日の夜も、その人はいた。
その次の日も。
どうやら、毎晩同じくらいの時間に月を見ているらしい。
私も、いつの間にかその時間になるとベランダに出るようになった。
もちろん、話したことはない。
目が合ったこともない。
ただ、同じ月を見ている。
それだけだった。
ある日、雨が降った。
月は見えなかった。
ベランダに出ても、向かいの人の姿はなかった。
次の日も雨だった。
その次の日、ようやく雨が上がった。
久しぶりに月が見えた。
でも、向かいのベランダには誰もいなかった。
それから三日経っても、その人は現れなかった。
四日目。
五日目。
私は、少しずつ心配になってきた。
別に知り合いでもない。
名前さえ知らない。
それなのに、夜になると気になった。
そして、六日目。
向かいの部屋のベランダに、段ボールが積まれているのが見えた。
引っ越すのだ。
なぜだか、胸の奥がきゅっとした。
その日の夜。
月がきれいだった。
私はいつものようにベランダに出た。
すると、向かいの女性も出てきた。
最後の夜だったのだろう。
しばらく二人とも月を見ていた。
やがて、女性がこちらに気づいた。
少し驚いた顔をして、それから小さく頭を下げた。
私も頭を下げた。
それだけで終わるはずだった。
でも、なぜか今日は違った。
私は手を振った。
女性も手を振り返した。
そして、遠くから聞こえるくらいの声で、
「きれいですね」
と言った。
私も、
「はい」
と答えた。
それだけだった。
女性は少し笑って、部屋の中へ戻っていった。
翌朝、向かいの部屋は空っぽになっていた。
私は、いつものように朝のカーテンを開けた。
もう、あの人はいない。
少し寂しかった。
でも、不思議と嫌な寂しさではなかった。
名前も知らない。
どこへ行ったのかも知らない。
これから会うことも、きっとない。
それでも私は知っている。
あの人も、何かを抱えながら、毎晩月を見ていた。
もしかしたら、私と同じように。
何をしたいのかわからない夜があったのかもしれない。
誰にも話せないことがあったのかもしれない。
ただ、月を見たかっただけなのかもしれない。
その夜から、私は少しだけ月を見るのが好きになった。
月は、何も答えてくれない。
明日のことも教えてくれない。
それでも、黙ってそこにいる。
それだけで、少し安心する夜がある。
だから今日も、月を見る。
どこかで誰かも、
同じ月を見ているかもしれないと思いながら。
~ 終 ~
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