
#シロクマ文芸部 借りた本の最後のページを、私は読まなかった~短編小説~
小牧幸助さんのお題で書きはじめる企画「借りた本」に参加です。
締切は9/16(水)23:59だそうです。よろしくお願いします。
※この物語はフィクションです。
借りた本を手にしたのは、二十七歳の春だった。
「これ、読んでみて」
彼はそう言って、一冊の文庫本を私に渡した。
少し古い海外小説だった。
「最後まで読んだら、返して」
それが、彼の口癖だった。
私たちは、よく本を貸し借りした。
面白かった本。
泣いた本。
何度読んでも意味がわからなかった本。
本を通して話すと、言葉にするのが苦手なことも、不思議と話せた。
ある日、彼が言った。
「もし、この先別々の道に行っても、この本だけは返してね」
私は笑った。
そんなこと、あるわけないと思った。
でも、それから一年もしないうちに、私たちは別れた。
理由は、ひとつではなかった。
仕事。
家族。
住んでいる場所。
将来のこと。
どちらが悪いわけでもなかった。
ただ、同じ方向を向いて歩くことができなくなった。
彼から借りた本は、私の本棚に残った。
返さなければと思いながら、返せなかった。
何度か手に取った。
最初から読み直したこともある。
でも、最後のページだけは開かなかった。
そこに何が書いてあるのか、私は知らない。
知りたいと思ったこともあった。
けれど、時間が経つほど、知らないままでいいような気がしてきた。
三十年近く経ったある日。
引っ越しのために本棚を整理していて、その本を見つけた。
ページの間から、一枚の小さな紙が落ちた。
彼の字だった。
「最後まで読んだら、返して」
昔と同じ言葉。
私はしばらく、その紙を見つめていた。
そして思った。
ああ。
まだ私は、この本を返していなかった。
翌週、私は昔住んでいた街へ向かった。
彼が今どこにいるのかは知らない。
もう会うつもりもなかった。
ただ、本だけは返したかった。
昔の本屋の前に立つ。
店はもうなかった。
そこには新しい建物が建っていた。
私は少し笑った。
街も、人も、変わっていく。
本だけが、ずっと同じ場所で私を待っていたわけではない。
持っていたのは、私のほうだった。
帰りの電車の中で、私は本を膝の上に置いた。
そして、最後のページを開いた。
一瞬、指が止まる。
読むことはできた。
もう、誰に止められるわけでもない。
それでも私は、本を閉じた。
最後まで知らなくてもいい。
あの人が最後に何を思っていたのか。
この物語がどう終わるのか。
あの頃の私たちに、別の未来があったのか。
全部を知ったところで、過去は変わらない。
私は本をバッグにしまった。
そして窓の外を見る。
夕暮れの街が、ゆっくり後ろへ流れていく。
あの頃の私は、答えが欲しかった。
正しい答えを知れば、後悔しないと思っていた。
でも今は、少し違う。
わからないままでも、前へ進める。
知らない未来を、自分で選んでいける。
だから私は、最後のページを読まなかった。
それは、逃げるためではない。
これから先のページを、自分で書いていくためだった。
~ 終 ~
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