
映画監督・東海林毅氏との対話
先日、映画監督の東海林毅さんとお話する機会をいただきました。
東海林さんは、バイセクシュアルを公表し、トランスアライと称しています。映画監督として、「片袖の魚」(2021)や「老ナルキンス」(2023年)などのクィアに関する映画を手掛けています。
「片袖の魚」では、日本で初めてトランスジェンダー役に当事者の俳優を一般公募し、話題となりました。

来月11月には、トランスジェンダー女性が作者の短編漫画を実写化した「となりのとらんす少女ちゃん」が公開予定です。

クィア当事者であり、クィア映画の監督も務めている東海林さんですが、過去にバイフォビア(バイセクシュアルに対する差別・偏見)を受けた経験があるそうです。
しかし、その経験が、「人権」について深く考えるきっかけにもなったとのことでした。
その中で、改めてご自身のアイデンティティを見つめ直し、映画の中でもクィアについてを表現するようになっていったそうです。
また、クィアに関する映画を制作するようになった理由として、日本では同性愛者の個人的な恋愛感情を描いた作品が多くありましたが、セクシュアルマイノリティと社会との関わりを描いた劇映画はあまり見当たらなかったとのことです。
そのように、自身のアイデンティティやそこから映し出される社会と向き合ってきた東海林さんとお話することで、私自身も考え方を見直すことができました。
私は、これまでもクィアの方々への取材・交流をしてきましたが、自身の立場や考え方が曖昧なままで関わってきたことに気付かされたのです。
シスヘテロの私が、Allyと名乗って良いものかという躊躇い、また、自分の理解力や経験値の乏しさからくる自信の無さがあったことにより、自身の立場を曖昧に濁して逃げていたのでしょう。
しかし、Allyは、クィアへの理解度・成熟度によって測られるものではなく、自分の考えや立場を示すために存在するものです。
私が、Allyと称することを躊躇してきたのは、非当事者ということに甘んじて、他のアイデンティティの人たちとしっかり向き合ってこなかったからでした。
そのような私は、クィアの方々と関わる時に、「辛い思いをすることが多いから、かわいそう」とか「生きづらさを感じているから、味方になりたい」といった感情論が先走っていました。
改めて考えると、この時点でマジョリティ側が優位であるでも思っていたのでしょう。あるいは、勘違いしたお情けのような感情をもつことで理解を示していた・手を差し伸べていたつもりになっていたのかもしれません。
そう考えると、恥ずかしい限りです。
しかし、人は、情動反応があった上で思考していくものでもあります。私の場合は、感情の動きは示したものの、そこで停止してしまい、深く考えることまではできていなかったのでした。
そのことを打ち明けると、東海林さんは、「人権」について考えることの大切さを語りました。
人権は、日本国憲法11条・97条、世界人権宣言(1948年)などで保障されていますが、クィアに人たちには、この基本的に保障されるはずの人権すらもつことができなかった歴史があるのです。
人が、「自分が自分であること」や「自分らしさ」を尊重するためには、社会からの承認が必要となりますが、それが保障されておらず、現代においても途上段階にあります。
クィアの人権を考える上で大切なのは、アイデンティティについての理解です。
アイデンティティは、「自分は何者なのか」「自分らしさとは何か」ということを社会との関わりの中で認識していくプロセスであり、人が健全に生きていくための心理的基盤となります。
マジョリティの人たちは、アイデンティティを保障されるのは当然のことのように思い込んでいる傾向があります。
それに対し、クィアの人々は、権利を勝ち取るために闘ってきた歴史があり、現在もその最中にあるのです。
その歴史を振り返りながら、今私たちが置かれている状況を見つめ直してみたいと思います。
