
【明治文豪、令和を歩く】第90回:めっちゃフォカッチャ
少し煤けたような、それでいてどこか懐かしい電球の光が灯る喫茶店の片隅で、二人の文豪が向かい合っている。荷風は琥珀色の珈琲を啜り、漱石は手元の古びた手帳を閉じて、品書きを眺めている。

荷風君、先ほどから品書きを眺めているのだが……この『ふぉかっちゃ』というパンは、一体どういう素性のものかな。見たところ、平べったくて表面に小さなくぼみがあり、まるで遠い異国の海岸で拾ってきた軽石のようではないか。

おや、先生。これはイタリアの古き良き港町で愛されてきた、素朴な麦の菓子でございますよ。私がかつて銀座の日吉町に『プランタン』というカッフェーが創設された折に立ち寄った際も、こうした西洋の香りはどこか異国の情緒を運んでくれたものです。このパンの表面に散らされた香草や塩の粒は、まるで築地の潮風を吸い込んだ江戸の路地裏のように、どこか懐かしい手触りがございます。

ふむ、潮風か。一口含んでみると、存外にもっちりとしていて、噛みしめるほどに麦の甘みが染み出してくる。これは、英国の堅苦しい午餐に出されるパンとは違い、もっと野暮ったい、しかし血の通った温かみがあるね。この、指で押したような『くぼみ』が、作り手の無造作な、それでいて確かな慈しみを感じさせて、どうにも好ましい。

左様でございます。この不揃いなくぼみこそが、機械で大量に刷り出された現代の書物にはない、写本や石版刷りのような『揺らぎ』でございます。オリーブの油がその窪みに溜まり、黄金色の光を放つ様は、大川の水面に映る夕陽のようで、眺めているだけでも無聊を慰めてくれます。私は、こうした飾り気のない、しかし土地の匂いがする食べ物を、独り静かに食するのが何よりの贅沢だと思うのです。

君は相変わらず、食い物一つにも詩興を見出すのが上手い。だが、この『ふぉかっちゃ』、どうにも私の胃の腑には少々油が勝ちすぎる気がせんでもない。明治の書生が下宿で啜っていた蜆汁(しじみじる)の滋味とはまた別の、いささか強引な生命力に溢れている。……とはいえ、この噛み応え、悪くない。まるで、一筋縄ではいかぬ世間の道理を、ゆっくりと咀嚼しているような気分だ。

ははあ、先生らしい。確かに、この油の艶は、今の世の浅草の賑わいや、カッフェーの喧騒を象徴しているのかもしれません。ですが、たまにはこうした異国の風に吹かれ、己の素性を忘れて、ただの一旅人として麦を食むのも悪くないものでしょう。私はこのパンを千切りながら、かつて巴里の街角で見た、名もなき画学生たちの孤独な夕餉を思い出しております。

孤独な夕餉、か。なるほど、このパンの素朴さは、独りで思索に耽るには誂え向きだ。……荷風君、もう一つ分けてくれたまえ。この、香草の香りが鼻を抜ける瞬間に、私の頭の中に渦巻く雑多な悩みも、少しばかり軽くなるような心地がする。現代の複雑怪奇な世相も、この『ふぉかっちゃ』のように、ただ噛みしめて飲み込んでしまえば、案外、単純なものなのかもしれんよ。