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境界線を越える。言葉も地図も、役に立たない場所へ。

    この文章は世界の街を切り取った旅エッセイです。
    題して「見知らぬ異国で、ひとりごつ」


    モロッコから南へ向かうバスの窓から見える景色は、ずっと砂漠だった。
    ただ、砂漠。
    茶色い大地が、地平線まで続いている。
    ときどき、ぽつんと岩が見える。ときどき、枯れた草が見える。それだけ。

    バスは、ごとごとと揺れながら、南へ、南へと進んでいく。
    ぎしぎしときしむシートの音が、規則正しく響く。
    窓の外は、灼熱の太陽に照らされて、空気がゆらゆらと揺れている。じりじりとした熱が、ガラス越しに伝わってくる。砂埃のにおいが、鼻の奥にこびりついている。

    何時間たったのだろう。
    景色は、何も変わらない。

    インドから旅をはじめて、西へ、西へと進んできた。
    パキスタン、イラン、トルコ、ギリシャ、イタリア。スペイン、ポルトガル。
    大陸の西の端にたどり着いたとき、次はどこへ行こうかと考えた。北へ行くか、西へ飛ぶか。結局、南を選んで、モロッコに来た。

    モロッコでは、三週間も足を止めてしまった。
    シャウエンで。ただ、ぶらぶらと歩いて、カフェでお茶を飲んで、また歩いて。次の行き先を決められないまま、時間だけが過ぎていった。

    ようやく腰を上げた。
    アフリカを、縦断しよう。南へ、南へ。どこまで行けるかわからないけれど、とにかく行ってみよう。

    だが、このバスに揺られながら、わたしは気づいた。
    ここから先は、今までとは、ちがう。

    ダフラに着いたとき、その予感は確信に変わった。

    街は、まるで映画で見た西部劇のようだった。
    低い建物が、ぽつぽつと並んでいる。舗装されていない道には、砂が積もっている。風が吹くたびに、ざあっと砂が舞い上がって、ひゅうひゅうと音を立てて、視界が白くかすむ。

    人々の服装も、顔つきも、これまで旅してきた街とは、どこか違う。
    すれ違う人たちは、わたしをちらりと見る。そして、目をそらす。

    言葉が、通じない。
    英語も、片言のアラビア語も、ここでは役に立たない。
    道を尋ねても、首を振られる。宿を探しても、わからないという顔をされる。

    バックパックからロンリープラネットを取り出して、ぱらぱらとページをめくる。
    砂漠の風にあおられて、ページがばさばさと音を立てる。
    だが、ダフラの項目は、ほんの数行しかない。宿の名前が二つ、レストランの情報はなし。地図も、おおざっぱで、役に立たない。使い古されたガイドブックの、黄ばんだページを見つめながら、ため息が出た。

    ああ、と思った。
    わたしは、未開の地に来てしまったのだ。

    不安が、じわりと胸の奥に広がっていく。
    ここから先、どうやって進めばいいのだろう。
    言葉も通じない。情報もない。頼れるものが、何もない。

    街をあてなく歩いていると、小さな食堂を見つけた。
    いや、食堂と呼べるのかどうかもわからない。壁に囲まれただけの、簡素な場所だった。

    中に入ると、おじさんがひとり、大きな鍋の前に立っていた。
    ぐつぐつと、何かが煮えている音がする。湯気が立ち上って、独特の匂いが鼻をつく。魚の匂い、スパイスの匂い、そして、何か知らない匂い。

    おじさんは、わたしを見て、にっこりと笑った。
    そして、何か言いながら、器に料理をよそってくれた。言葉はわからなかったが、「食べろ」と言っているのだろう。

    出されたのは、茶色い煮込み料理だった。
    魚が、ごろごろと入っている。それから、じゃがいもと、トマトと、わからない野菜。
    スプーンを手に取って、ためらった。

    これは、何だろう。
    大丈夫だろうか。

    おじさんが、じっと見ている。
    もう、食べるしかない。

    ひと口、すくって、口に運んだ。
    ぴりっと、スパイスが舌を刺激する。魚の旨味が、じんわりと広がる。そして、独特の酸味。レモンだろうか。塩気が強くて、少し油っぽい。でも、まずくはない。いや、むしろ、おいしい。

    おじさんが、また笑った。
    「うまいだろう」と言いたげな顔をしていた。

    わたしは、こくこくとうなずいて、また、スプーンを口に運んだ。
    熱い料理が、喉を通っていく。体の中に、じわりと染み込んでいく。

    この味は、どこで食べたこともない味だった。
    インドでも、イランでも、トルコでも、モロッコでも。
    ダフラの、この街だけの味。

    食べ終わると、おじさんが、ぽんぽんとわたしの肩を叩いた。
    そして、何か言った。わからなかったけれど、「よく食べたな」と言っているような気がした。

    外に出ると、空き地で子どもたちがサッカーをしていた。
    ぼろぼろのボールを、はだしで蹴っている。
    きゃっきゃっと笑いながら、走り回っている。

    その声を聞きながら、わたしは立ち止まった。

    この街は、たしかに、わたしにとって未知の場所だ。
    言葉も通じない。情報もない。
    だが、ここには、人々のくらしがある。子どもたちの笑い声がある。風に舞う砂の音がある。灼熱の太陽の熱がある。

    旅というのは、いつだって、こういうものだったはずだ。
    わからないことだらけで、不安で、それでも、一歩ずつ進んでいく。

    インドから、ここまで来た。
    モロッコで三週間も迷って。
    そして、西サハラ。

    ここは、たしかに、境界線だ。
    これまでの旅と、これからの旅の、境い目。
    引き返すこともできるけれど、わたしは、もう決めたのだ。南へ行くと。

    夕暮れどき、街は茜色に染まった。
    風が、少しだけ涼しくなった。砂が、さらさらと音を立てている。

    わたしは、まだ不安だった。
    この先、どうなるかわからない。
    だが、それでも、明日、また歩きはじめる。

    子どもたちは、まだサッカーをしていた。
    ボールを蹴る音が、ぽんぽんと、夕暮れの空気に響いている。

    ―ああ、またひとつ、見知らぬ異国で、ひとりごつ。


     
     
    異文化ライター / AI対戦会主催 / 年間マンガ500冊レビュー / SF短編小説家 / プロいく一期生 スターバックス勤務20年。ゲーム実況15年。シェアハウス10年。 ヘッダ画像はタプローム遺跡(本人撮影)。木の根が寺院を包み込む様子が神秘的。 amazonアソシエイト参加