岩井圭也『文身』を読んだ
祥伝社文庫の背表紙って素敵だな〜何か一冊欲しいな〜と。さらっとあらすじを見て、帯を見て、表紙を見て、好きそうだなと。それだけの動機で手に取った作品が『文身』であった。それだけであったのに、とんでもない体験をした。読了から一ヶ月近く経過した今であってもふとこの小説に想いを馳せる。とにかく衝撃的な内容で、何を言ってもネタバレになる気がしてくるが故にこの衝撃を誰にも伝えられずにいた。が、そろそろ抱えられなくなってきたのでこの場を借りて放出しようと思う。
以下は本書のあらすじである。
己の破滅的な生き様を私小説として発表し続けた文壇の重鎮、須賀庸一。彼の死後、絶縁状態にあった娘のもとに、庸一から原稿の入った郵便物が届く。遺稿に書かれていた驚くべき秘密――それは、すべての作品を書いたのは約60年前に自殺したはずの弟だということ。さらには原稿に書かれた内容を庸一が実行に移し、後から私小説に仕立て上げていたという「事実」だった……。
これ以降の内容にはネタバレを多分に含んでいるため、読了後の閲覧を推奨する。
また、以降の内容は読了後の深夜に勢いで書き殴ったものであるために、支離滅裂であったり、間違った解釈をしている可能性があるが、〝熱〟を感じてもらうために原文を載せる。ノリとパッションで読んでいただきたい。
死を偽装した堅次が兄の私小説という虚構を組み上げ、庸一はそれを現実に昇華する。自身の人生を犠牲にして兄の人生のシナリオライターを務める弟と、弟が用意した舞台の上で弟が用意した脚本を演じ切る兄の物語。或いは、創作に魅入られ狂わされた兄弟の物語。
文筆家としての二人は歪んだ信頼から始まる。やがてそれは依存関係へ。
憎悪、嫌悪、恐怖、嫉妬。兄弟愛、と呼ぶには些か憚られるような感情の応酬。そんな中で堅次が筆を走らせ続けるのは、庸一が従い続けるのは、二人共が霧の立ち込めるような現実から逃げ出したかったから。そして、二人共が「菅洋市」という虚構に魅入られ、取り憑かれていたからに他あるまい。
演者である庸一と作家である堅次の両方が「菅洋市」に心酔していた。盲目的だった。そう、物語は進んでいく。
しかし現実は違った。そも、作家としての弟すら庸一の生み出した虚構であった。あの日弟は確かに死んでいたのだ。だと言うのに庸一は自らの手で受け入れ難い虚構を創り出し、強迫的なまでの信念を以て現実にする。何もかも、自身の手で創り上げたマッチポンプだった。目を逸らしていた現実を、庸一は最期にようやく認識する。
だが物語の最後。庸一が書けない、書けるはずのない『文身』が。ウィリーからの手紙が娘の手元に届く。結局堅次は生きていたのか。虚構と現実の狭間で物語が二転三転する。幕は読者に解釈を委ねる形で下ろされた。
虚構は現実になる。在ると信じるのならば、その人にとってはそれが現実だ。庸一にとっての虹の骨。であるならば。『文身』を書いた人物が、ウィリーを名乗る人物が堅次だと信じたなら、「堅次は生きている」という虚構は現実になるのではなかろうか。
我々は日々、夢や理想という言葉で繕った虚構を塗り重ねている。その虚構を現実にするべく、それに相応しい人を演じている。人は皆庸一であり堅次だ。違うのは、多くの人にとっての「菅洋市」が破滅的なものではないということ。庸一と堅次、それぞれの才能が文士のそれに振り切っていたこと。綴る物語とその程度が違うだけで、我々は等しく作家であり、それから演者である。自身の未来という虚構(シナリオ)を描き、演じる。
就活生という立場に身を置く今、本作は傑作のミステリであると同時に勇気を貰える一冊であるとも感じた。虚構を現実にする。就職活動などこの作業の繰り返しだ。本作にはその方法が事細かに記されている。
大切なのは内容それ自体でなく、その裏に隠れるもの。たとえばある種の強迫観念。狂気的とすら言える執念。描いたことを実行する意志や決断力。起きた事実に則して物語を書き換える修正力。いずれも人生を歩んでいく上で必要な能力だろう。物語を通してこれらを理解できる、学びのある作品。エンタメと括るには勿体ないとまで感じる一冊であった。
学校に提出する読書感想文のようになってしまったため、最後くらいはふざけておこう。クソデカ感情を向け合う兄弟、最高。