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『半分のぼった黄色い太陽』と遠い旅

    読書がひとつの旅だとするなら、最近私は、そこに赴おもむくとは考えてもいなかった場所に出かけていました。
    1960年代のナイジェリアです。
    現代日本からはあまりに遠く、それだけでは何のイメージも浮かばない、というところかもしれません。

    私自身がそうで、アフリカ人作家の作品を読むのも初めてでしたし、今作『半分のぼった黄色い太陽』は、二段組でも500ページ超えという長編小説です。
    果たして最後まで辿り着けるか、不安になりつつページをめくり始めました。どうしてもなじめなければ、途中で引き返したっていい、何か判断するにしても、ともかく出発してからだ、と思いながら。


    そうして私は、物語の主要な登場人物ウグウ少年が、家事雑用の一切をこなすハウスボーイとして、ナイジェリアの大学都市スッカの一軒家を訪ねるのに付き添います。
    このウグウ少年は"学はなくても地頭は良い"典型的なタイプで、故郷の貧しい集落と都会の新天地との落差にも翻弄されず、持ち前の向学心に洞察力、時にズルやハッタリも駆使して、新生活に馴染んでゆきます。

    ウグウの主人オデニボは大学教授で、夜ごと仲間と集い、音楽に酒や料理を楽しみながら、学問、政治、世界情勢、ありとあらゆる話題で活発な議論を繰り広げます。
    そこにロンドンから帰った麗しい女性オランナが加わり、オランナの双子の妹カイネネ、彼女に恋するイギリス人リチャード、オランナを憎むオデニボの母親と付き添いの娘アマラと、様々な人々がウグウの前に現れては、複雑なカドリールのように、近づいては遠のく、あやしい群舞を披露します。


    ウグウは彼なりに色々な考えで頭をいっぱいにし、目まぐるしいような出来事を味わいますが、この時点で私もすっかり物語の中に引き込まれていました。
    アフリカならではの感覚や生活の細部への驚きもあれば、国や人種が違っても、人の心理や悲喜交々はそう違わないのだなという実感もあり、といった具合です。

    けれどもその平和な日々に、危機が密かに滑り込み、物語はやがて色を変えます。起こるはずがない、と考えられていた戦争が、突如として始まるのです。


    世界史に詳しい方はご存知でしょうが、ナイジェリアは1967年から1970年1月まで、激しい内戦下にありました。長年の不遇に喘ぐ東部州のイボ人が〈ビアフラ共和国〉の樹立を宣言したのがきっかけで、それを潰そうと目論むナイジェリア政府との軍事衝突が発生したのです。

    イボ人はナイジェリアの主要三大民族のひとつで、ウグウを含め、彼の主人オグデボに恋人オランナ、友人知人の多くが、国家の敵と見なされ命を狙われることとなります。

    けれども彼、彼女らは心からビアフラ共和国の正当性と勝利を確信しており、こんな戦いはすぐに終わる、国際社会がビアフラを見捨てるはずがない、という共通認識も持っています。共和国大統領かつ軍の最高司令官でもあるオジュクが、すぐに事態を輝かしい収束に導いてくれる、との希望も。


    その熱狂的な信頼は、人々を強く結びつけると同時に、判断を誤らせるきっかけともなります。目の前の現実を淡い期待のヴェールで覆い隠したばかりに、物事をあるがままに見、理知的に思考することができなくなるのです。

    それはオデニボとオランナという、最高レベルの知性を誇るカップルにしても例外ではなく、二人はビアフラ勝利への盲信のため、幾度も安全圏への逃亡の好機を逃します。
    その結果として、二人の子であって二人の子でない、複雑な誕生の経緯を持つ娘ベイビーとウグウを含む4人は、命懸けの逃避行と苦難の生活を強いられることとなります。


    実は私が最も胸中にざわつきを覚えたのは、このあたりの描写です。これまでに読んできた戦争文学やホロコースト文学、回顧録とあまりに似た空気がそこには流れていたからです。
    それは後の世の、歴史的推移を知る人間の目から見た、間違った判断をする人に対する言いようのないもどかしさであり、たとえ創作とはいえ、死につながる道を自ら選んでしまう人に対する、声にならない叫びのような感情でもあります。

    ウグウや彼の賢明な主人を含む誰一人として、事態の差し迫った危険性に気がつかず、安全性バイアス、希望的観測、現実逃避、何とでも表現できる状態でただのんびり構えているのです。
    私にとってそれは極めて恐ろしいあり方で、危険がまだ前兆や予感として留まるうちに、その現実化を回避する道を選ばないのは、最も不幸で悲劇的に感じられます。


    そしてその総毛立つような悪い予感、言い知れない不穏な空気は、1967年のナイジェリアのみならず、2026年の日本をも包んでいるように思われます。
    作中で描かれる戦争前夜の雰囲気、人々が交わし合う不安を押し込めたやり取りが、現実で自分が日々体感している不気味さと酷似しているようなのです。

    時間の経過と共に少しずつ泥沼へと滑り落ちてゆくその様は、背筋にじんわりとした悪寒を生じさせ、意識的に物語へと集中し直さなければならないほどでした。


    けれども、話の大筋に凄惨な内戦が絡んでいるとはいえ、この物語は決して単純な戦争小説ではありません。スリリングなドラマや恋愛小説としても読める、と評した識者もいるように、展開される緊迫感あふれる人間関係が、トーンを抑えた丁寧な筆致で綴られていくのです。

    それが戦争という大きな歴史的事件と変わらぬ比重で扱われる時、どのような世の中であっても人の営みは続く、という一見卑俗な、けれど偉大な真実が浮かび上がってきます。
    そこで人は食べ、眠り、働き、恋をし、絶望し、憤り、赦しながらささやかな暮らしを続け、その個人の小さな生活と心の動きは、国家の安泰と劣らず大きな意味を持つものとして描かれます。
    私はそのことに、作者が持つ矜持のようなものさえ感じます。


    20世紀最大級と言われる人道危機を招き、〈国境なき医師団〉発足のきっかけともなったビアフラ戦争。その始まりから終わりにかけての、回復不能なほどに傷つき、痛めつけられ、それでも立ち上がろうとする人間の姿を見せる物語を読み終えたのち、私は自分自身の一部もまた、作中の登場人物たちと同様変容したことに気がつきました。
    優れた物語には、すべからくそういった力があります。

    それは、未踏の地を丹念に歩き回る旅と同じであり、一時その土地の住人になり、同じ言葉を話し、同じものを食べ、同じ空の下で眠ることです。
    その後で、そこへ行く前と考えや感じ方が異なるのは当然です。

    それだけで全てを知ったような気になるのは論外ですが、それでもそれ以前と以後とは、決定的に何もかもが変わります。


    ビアフラ共和国という、地上にたった2年半しか存在しなかった国と、そこで生きようとした人々の存在について私は知りました。
    今後、ビアフラやナイジェリアについて見聞きすれば強く意識に留まるでしょうし、物語自体に普遍性を見たために、それは"何かエキゾチックなもの"ではなくなりました。
    "アフリカ文学"を読んだ、"アフリカ人作家"を知った、というエクスキューズ抜きで、ただ素晴らしい物語とその作者を知った、という認識と喜びだけがあります。

    読了後に作者チママンダ・ンゴズィ・アディーチェのインタビューのいくつか、別の短編小説も読みましたが、すでに将来的なノーベル賞候補として名が上がる彼女の独自性と才能は、特筆すべきものを感じさせます。


    こうして私の初のナイジェリアへの旅は、深いため息をもって終わりました。
    それは安堵や感嘆、そこから離れることへの残念さを込めたため息です。

    そうしてやはり、旅がもたらすもの、そこに含まれる恩寵について思わずにいられません。
    心の内で今回の濃密な旅への感謝を捧げ、またあちらこちらへ、飽かず新たな旅を続けてゆくことにしましょう。



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