
前に出ないことで生まれる世界──David Sylvian『Dead Bees on a Cake』の深い余韻

「前に出ない」ということ
1999年の『Dead Bees on a Cake』は、David Sylvianにとって12年ぶりのソロ・アルバムでした。しかも制作には5年の作曲期間と3年ほどの録音期間を要しています。Sylvian自身が、制作途中で何度も行き詰まり、最終的にはプロデュース、エンジニアリング、サンプリング、プログラミング、演奏、ミックスまで自分で引き受けることになったと語っています。
普通なら、これだけの時間と労力をかけたソロ作品なら、「David Sylvianの作品であること」を前面に押し出したくなる。
ところが、このアルバムでSylvianがやっていることは逆です。
Bill Frisell、Marc Ribot、Kenny Wheeler、Ryuichi Sakamoto、Talvin Singh、Deepak Ram、Steve Jansen……。
参加している音楽家の名前だけを見ても、ひとつのバンドとしてまとまるような編成ではありません。Sylvian自身も、曲が必要とする「声」を感じ取って、その音楽家を呼ぶという方法を説明しています。
「私の音楽を、このメンバーで演奏する」
ではない。
むしろ、
「この音楽には、この人の音が必要だ」
という発想なんですね。
これはかなり大きな違いだと思います。
音楽家が「最前列」にいない
『Dead Bees on a Cake』を聴いていて面白いのは、これだけ豪華なミュージシャンが参加しているのに、彼らがスターとして前面に出てこないことです。
例えばMarc Ribot。
普通なら、Ribotのギターが入っているというだけで、彼の個性を聴きたくなります。
しかしここでは、Ribotは「Marc Ribotを聴かせるギタリスト」ではなく、曲の内部にある陰影を一つ増やす人として存在する。
Bill Frisellも同じです。
「Frisellらしいギター」を披露するためではなく、dobroやアコースティック・ギターによって、音楽の表面に土や木のような質感を置く。
Kenny Wheelerのフリューゲルホーンも、Talvin Singhのタブラも、Deepak Ramのバンスリもそうです。
誰か一人が「俺を聴け」と前に出るのではない。
それぞれの音が、全体の中に沈んでいく。
公式クレジットを見ても、このアルバムにはRhodes、dobro、flugelhorn、tabla、bansuri、gong、サンプリング(MahavishnuOrchestra, John Lee Hookerなど)、プログラミングなど、実に多様な音源が配置されています。
だから、このアルバムの凄さは「誰が弾いているか」だけでは説明できない。
むしろ、
誰が弾いているのかが分からなくなる瞬間に、音楽が立ち上がる。
そこが面白い。
「I Surrender」は、このアルバムの宣言なのではないか
冒頭の「I Surrender」は、このアルバムを読む上で非常に重要です。
Sylvian自身も、この曲をアルバム全体のテーマを凝縮した「ミニ・マニフェスト」と説明しています。
タイトルそのものが、
I Surrender
=私は降参する
なんですね。
ここには、音楽家としての「自己主張」から少し離れていく感覚があります。
もちろんSylvianは、このアルバムで何もしていないわけではありません。
むしろ逆です。
ものすごく細かく音を組み立てている。
ただし、その結果として目指しているのは、
「David Sylvianがすべてを支配している音楽」ではない。
自分が音楽を支配するのではなく、音楽の中に自分を置いていく。
だから「I Surrender」は、単なる精神的・宗教的な歌ではなく、このアルバムの制作姿勢そのものとしても聴けるのではないでしょうか。
そして「Dead Bees」というタイトル
Sylvianはタイトルについて、蜂のイメージを再び使うことには当初ためらいがあったものの、最終的にはこのタイトルになったと話しています。また「ケーキ」は、それぞれが自分の夢のケーキを想像すればいい、とも語っています。
「Dead Bees」。
死んだ蜂。
蜂は、本来なら群れで動き、個体ではなく全体として働く存在です。
そこに「死んだ」という言葉が置かれる。
しかし、その死骸が「cake」の上にある。
私はここを、「個人が前面に出る音楽」から「いろいろなものが混ざり合って一つの世界を作る音楽」への転換として読むこともできると思います。
蜂が一匹ずつ飛び回っているのではない。
蜂そのものが主役なのでもない。
その痕跡が、巨大なケーキの一部になっている。
だから「音楽は最前列でやるだけではない」
このアルバムについて一番書きたいのは、ここではないでしょうか。
ロックやジャズを聴いていると、つい、
誰がギターを弾いているか
誰がソロを取っているか
誰の歌が凄いか
誰がリーダーなのか
という「前景」に目が行きます。
でも音楽には、
前に出ないことで音楽を成立させる人間もいる。
さらに言えば、
前に出ないという選択そのものが、ひとつの音楽的態度になる。
『Dead Bees on a Cake』は、そのことをかなり徹底して実践した作品だと思います。
Sylvian自身も、90年代にはRobert Frippなどとの共同作業を重ねてきましたが、共同制作には「大きな妥協」が伴うため、久しぶりにソロ作品を自分で最後まで見届けることを楽しんだと語っています。
ところが、その「ソロ」は孤独な独裁ではない。
むしろ逆に、多くの人間の音を受け入れるための中心になっている。
「音楽の中心」と「音楽の最前列」は違う
Sylvianはこのアルバムの「中心」にはいる。
しかし「最前列」にはいない。
この二つは同じではない。
彼は音楽を作り、配置し、編集し、歌っている。
けれど、その音楽の中には、
SakamotoのRhodes、
Frisellのdobro、
Ribotのギター、
Wheelerのフリューゲルホーン、
Talvin Singhのtabla、
Deepak Ramのbansuri、
Steve Jansenのパーカッション……
そうした無数の「他者」が入り込んでいる。
だからこのアルバムは、
「David Sylvianが何を演奏したか」より、
「David Sylvianがどこまで自分以外の音を受け入れられたか」
という角度から聴いたほうが面白い。
そして、それは単なる音楽制作の話に留まらない。
1990年代のSylvian自身が、結婚、アメリカへの移住、子どもの誕生、精神的な探求など、音楽以外の人生に深く入り込んでいった時期でもありました。本人も、そうした生活や精神的実践が音楽への集中を一時的に遠ざけたと振り返っています。
だからこそ、このアルバムでは、
音楽家として人生を生きるのではなく、人生を生きた人間が、その人生の中から音楽を拾い上げている。
そんな感覚がある。