
夜空に描かれた絵〜星座に思うこと
コニカミノルタの運営するプラネタリウムで、「フィジーヒーリング ~南十字星と幸せの島~」を鑑賞してきました。
南太平洋に浮かぶフィジー共和国。
美しい海と雄大な自然に囲まれたここは、世界で一番幸せな国とも呼ばれています。それは「自分が幸せ」と感じている人の割合が、何度も世界で一番になっているから。
本作では、フィジーの豊かな自然や文化に触れながら、オリジナルアロマの香りとともに、満天の星を眺める贅沢なひとときをお楽しみいただけます。
公式サイト

正直なところ、コニカミノルタのプラネタリウムには警戒心がありました。というのも、前回鑑賞したプログラムがあまり好きではなく…謎のストーリーが付いていたのですが、その脚本がグダグダで、期待外れだったのです。
ただ今回は余計なストーリーがなく、波の音とともにゆっくり星空を鑑賞できるもので、薫ってくる2種類のオリジナルアロマもやりすぎずいい感じ。ウトウトしながら、ゆったりとくつろげてかなりよかったです。
今回は「芝シート」を予約してみましたが、普通のシートよりもかなりリラックスできるので、次も来るならこっちがいいと感じました。
星座の無理やり感
プラネタリウムですから、美しい満天の星を見せてもらえます。そして星と星を繋いだ星座も表示されますよね。南半球のフィジーでは北極星の代わりに南十字星が目印になっている、日本では上半身しか見えないケンタウルス座の下半身が見える、などの説明はとても面白かったです。
ところで、星座って納得感薄くないですか?
12星座なんかは比較的具体的な気がしますが、一見すると「え…?」となる星座もあります。
例えば、フィジーの空に見えるという「けんびきょう座」。日本でも見られるそうです。

ちょっと待て!
明らかに、星の配置と絵がずれています。強いていうなら逆向きでしょう。
以下、Wikipedia情報で恐れ入ります。
けんびきょう座は、18世紀中頃にフランスの天文学者ニコラ・ルイ・ド・ラカイユによって考案されたそうです。新しい星座ですね。
さらに、かつてその星の一部は軽気球座という星座の一部だったらしいのですが、それは1798年、モンゴルフィエ兄弟の熱気球を記念した星座を設定するようにジェローム・ラランドから提案を受けたヨハン・ボーデが設置したものだそう。
全員誰?という感じですが、要は、19世紀頃までは星座は流動的だった、ということみたいです。そして、個人の顕彰のために設置されることもあった。
また、星座を設置するという権威的な行為に対しては、学者たちの間でさまざまな争いがあったのでは、ということも容易に想像されますよね。
「けんびきょう座」は、ラカイユの設置した科学道具シリーズの一つだそうです。ラカイユという人部はそうしたナウい星座を生み出す気鋭の人物として売り出したのかな〜、と想像します。知らんけど。
星座は、元から夜空に描かれていたわけではありません。星と星とをどう繋げるか、どこからどこまでを一つの星座とみなすのか、というのはその背景にある文化圏や、はたまた個人の意図にすらよるわけです。
キリスト教世界でなければ「南十字星」は生まれないでしょうし、18世紀の西洋だからこそ「けんびきょう座」も生まれたのです。
「星座の絵」は責任重大
夜空は広大で、無数の星があります。言葉のみで、指したい星を表現するのはかなり困難でしょう。それはプラネタリウムでもおなじこと。ですので、仕方なく、矢印を出して示したりします。
星と星を繋ぐ線も、夜空に描かれているわけではないですが、プラネタリウムなら可視化することができます。さらにその上に、さきほどの「けんびきょう座」のように絵を出すこともできます。この絵って非常に重要ですよね。
たとえば乙女座。古代ギリシアの、豊穣の女神・デメテルだそうです。

美術史家としては、「これは誰がいつ描いた絵なの?」というのが気になってしまいます。いや、この絵が「何かを元にして最近描かれたもの」なのはわかりますし、そこにとやかく言うつもりはありません。ですが、その「元の絵」だって、いつかどこかの時代性や、地域性を反映したものに違いありません。
星座の絵というのは責任重大ですよ。「うお座」といっても、どんな魚なのか、その絵がイメージを決めてしまうのですから。
できれば、その星座がいつ誰によって唱えられ、今見ている絵はいつ誰によって描かれたものなのか、つまり「星座の美術史」を教えて欲しいですね。そうすれば、より「その時代の人と同じ空を見てる」という感動も得られそうです。
(もちろんそういうプログラムもたくさん試みられてきたんでしょうけどね)
星座とは、人である
もともと形にならない星と星を線で繋いで、何かの形に見立てる。星座というのは、人間という存在の、認識のあり方そのものだと感じます。
世界は、本来は何の意味も持ちません。ただ、人間がそれに名前や意味、価値をつけ(=対象化)、意味のある世界を作り上げていきます。さもなくば、歩くことも食べることも難しいでしょうからね。
私たちにとってこの世界は意味に満ち溢れていますが、それらはすべて単なる思い込み、ということ。仏教(唯識)ではこれを遍計所執性(へんげしょしゅうしょう)といいます。
意味から逃れれば、私たちはすべての苦しみから解放されます(これが悟りを開くということ)。ですが、それができないから人間なのです。点が2つあれば、そこに何かの形を見ずにはいられないのです。

出光美術館
「これくふて 茶のめ」
そう言われたら、これがまんじゅうか、せんべいに見えてくる。でもそう見えてきた時点で、私たちは、すでに悟りからはほど遠いところに飛ばされてしまっています。
そういう意味では、星座は人間の人間たるゆえんそのものです。星座に満ち満ちた星空も、本来は何の意味もない点の集合でしかありません。しかし、それを繋いで何かの形を見ずにいられない。
私は、星座や星座の絵を嘲笑するつもりはありません。天を見上げながら無尽蔵のイマジネーションを働かせ、星座を描いていった過去の人々の営みを、愛しく感じます。それは、この上なく人間的です。
水牛の星座が栗鼠に変わる
星座は地球上の遠く離れた地点や、悠久の時を超えて、同じ形を私たちに見せてくれています。そこにロマンがあります。
しかし、夜空に光を放つ恒星は、太陽がそうであるように、いつか死を迎えます。星座も永遠ではないのですね。
2008年に放映された亡念のザムドというアニメがあります。有名ではないかもしれませんが、私はかなり好きな作品で、何回か、通して見たことがあります。いわば異世界系の世界観ですが、茨木のり子の詩が、作中に何回もリフレインされる変わった作品です。
脚本兼監督の宮地昌幸氏によって、ノベライズも刊行されています。

作中、とある登場人物が、長い眠りにつくことになります。その際のセリフが、妙に深く、私の心に刻まれています。
次にあの夜空を見上げた時には、水牛の星座が栗鼠(リス)に姿を変えているかもしれないな……。
途方もない時間をこれから孤独に生きる人物の悲壮感と、それでも希望を捨てない気持ちとが同時に表現されています。しかも夜空を見上げるという、誰もが日々行なっている行為を通して。
想像しやすくて、かつ切なく、恐ろしく、そしてなぜか安心感を生む、すごいセリフです。
そんなわけで、「空」に意味を見るのは、人生も星座も同じということで。お後がよろしいようで。