
短編小説|水の音を胸にしまって/詩のような物語
水の音が、森の奥から呼んでいた。
蝉の声に押されるようにして、
わたしは細い山道を歩いていた。
夏は、あまりにも明るい。
空も、
雲も、
葉っぱの一枚一枚も、
逃げ場がないほど光っている。
額から落ちる汗をぬぐいながら、
もう引き返そうかと思ったとき、
さらさら、
と、風とは違う音がした。
耳を澄ます。
さらさら。
きらきら。
ころころ。
水の音だった。
木々の間を抜けると、
そこだけ空気の色が変わった。
苔むした岩のあいだを、
細い清流が走っている。
水は透きとおり、
川底の白い石まで見えた。
木漏れ日が水面で揺れて、
小さな魚のような光が、
流れに沿って泳いでいる。
わたしは靴を脱ぎ、
おそるおそる足を入れた。
冷たい。
思わず声が出た。
冷たさは足首から膝へ、
膝から胸の奥へと駆け上がり、
身体の中にたまっていた熱を、
ひと息でさらっていった。
しばらくすると、
冷たいはずの水が、
不思議とやさしく感じられた。
流れは急がず、
けれど止まらない。
岩にぶつかれば二つに分かれ、
倒木があればその下をくぐり、
また何事もなかったように、
先へ進んでいく。
わたしは最近、
何かにつまずくたびに、
立ち止まってばかりいた。
うまくいかなかったこと。
届かなかった言葉。
思っていたより遠かった場所。
岩にぶつかるたび、
道が終わったような気がしていた。
けれど水は、
道がないなら、
自分で道をつくっていた。
さらさら。
大丈夫、と言うように。
ころころ。
まだ先がある、と笑うように。
わたしは両手で水をすくい、
頬にあてた。
冷たさの向こうから、
新しい力が戻ってくる。
森を出れば、
また強い日差しが待っている。
汗もかくだろう。
道にも迷うだろう。
誰かの視線に、
小さく傷つく日もあるだろう。
それでも、
さっきまでより少しだけ、
歩ける気がした。
水は、
振り返らずに流れていく。
光を拾いながら、
小さく歌いながら、
海へ向かって。
わたしも靴を履き、
立ち上がった。
森の出口は、
まだ見えない。
けれど耳の奥には、
水の音が残っている。
さらさら。
その音を胸にしまえば、
夏はもう、
暑いだけの季節ではなかった。
シロクマ文芸部に参加させていただいています。
小牧部長さま、いつもありがとうございます!
今回のお題
「水の音」から始まる文芸作品です
【詩のような物語】という、小さな物語たちを紡いでいます。
もし、今日の物語が、あなたの心にふれていたら
──それだけで、うれしいです。ありがとうございます。
これからも、日々の光や影を、そっと言葉にしていきます。
🌸【詩のような物語】🌸
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