
悪に優しきこの国で −裁かれぬ悪と、救われる悪−【第17話】無実の犯罪、真実の殺人
青山麻衣からの手紙には、元夫である雫石和也の事件の時系列と共に、彼女が知り得るすべてが綴られていた。……その内容には強い衝撃を受けたが、それが事実なのかは判然としない。現時点では、あくまで加害者家族の一方的な言い分に過ぎないからだ。
だが……、もしこれが事実だとすれば、雫石和也の痴漢は『冤罪』だったことになる。そして新浜楓の勘違いと、ネット民による私刑によって、彼は人生のすべてを奪われたのだ。
新浜楓の殺害……。あれは、起きるはずのなかった、いや、起きてはならなかった『殺人』だったのではないか……?
稲村朱音はそう思わずにはいられなかった。
ただ、それを客観的に証明する決定的な証拠がない。ジャーナリストとして、稲村はこの情報の取り扱いに激しく頭を悩ませていた。
先日の番組『変わりゆく刑務所』の放送後、ネット上は激しい物議を醸していた。
『殺人犯に人権なんてあるわけないだろ!』
『いや、どんな人間にも人権はある』
『じゃあ、命を奪われた人間の人権はどうなるんだ?』
『殺人犯なんか顔も名前も一生晒し続ければいい』
そんな炎上の中で、ある動画が投稿された。あの日、電車内で起きた雫石和也の「痴漢現場」を撮影した映像だった。
『こいつに人権なんかあるのか? 痴漢しておいて、逆恨みで女子高生を殺したんだぞ』
撮影者自身も盗撮行為を行っていたようで、アングラ掲示板にのみ限定公開していた動画を、第三者がSNSへ拡散したようだった。
画角には、新浜楓の股間に伸びる手が映っている。短いスカートはたくり上げられ、下着が見えていた。撮影者はそれに気づいて盗撮していたのだ。
画面比率9:16の縦型映像には、混雑する車内の乗客が数名映り込んでいた。

そこには雫石和也の姿もあった。彼は両手で鞄を抱えるように持っていた。電車が揺れた瞬間、慌てて右手で吊り革に掴まる。抱えていた鞄が左側に傾く。
鞄の角が、楓の臀部から股間付近に接触した。
その直後……。
「この人、痴漢です!」
楓の悲鳴が車内に響き渡り、和也の手首が強く掴まれた。
「これは……!」
稲村朱音はその映像をすぐさまダウンロードし、局内の映像解析担当と共にコマ送りで検証し直した。

雫石和也の手は、新浜楓に一切触れていない。
斜め後ろから伸びていた手は、明らかに別の人物のものだった。
青山麻衣の手紙による証言と、動かぬ物理的証拠が一致した。
雫石和也は、完全なる冤罪によって社会的に抹殺され、追い詰められたのだ……。
この事実を雫石和也に伝えたい。
しかし、服役中の本人への面会は極めて難しく、刑務所外との手紙のやり取りも厳しい検閲が入るため、具体的な冤罪の検証内容を書き記すことは避けるしかない。
まずは被害者遺族である、新浜楓の父・剛さんと話してみるべきか? だが……この真実が存在したとしても、娘が殺害されたという惨状は何一つ変わらない。むしろ亡くなった楓を責める形になり、遺族が素直に受け入れられるはずもない。
新浜楓殺害の事実は揺らがない。
雫石和也は冤罪の被害者であると同時に、容赦のない殺人犯なのだ……。
番組『変わりゆく刑務所』の「裏の真実」として告発する価値は十分にある。しかしそれは、痴漢冤罪報道を過熱させて彼を追い詰めたマスコミ自身の首を絞める諸刃の剣でもあった。
稲村は苦悩の末、証拠となった映像を携えて青山麻衣のもとを再訪した。

「青山さん、新しい証拠が見つかりました。お手紙の通り……『痴漢』は『冤罪』でした。こちらが、当日に第三者が撮影していた映像です」
「……和也。やっぱり、冤罪だったんだ……。周囲からのバッシングに耐えきれなくて離婚してしまったけれど、私が最後まで傍にいてあげていたら……。でも、あの子を殺してしまったという事実は、もう取り返せません。稲村さん、この証拠に……今さら何か意味があるのでしょうか?」
「痴漢の件は当時示談で処理されている以上、前科も犯歴も残っていません。法的に『冤罪』として裁判で争うこと自体が難しいのが現実です」
「じゃあ、どうしろと言うんですか!? 夫を見捨てた私が悪いと責め立てたいのですか!?」
「違います……ただ、あなた方ご家族の思いや疑問が間違いではなかったのだと、お伝えしたかったのです。そしてそのことを、和也さん本人にもお伝えしたいのです。『お子さんの近況報告』という名目であれば、面会が認められる可能性があります」
「私も……彼に会って謝りたい。でも、他人になった私でも会えるのでしょうか?」
「まずは刑務所へ電話し、面会の申し出をしてみてください。手続きを経て許可が下りれば、会いに行くことができるはずです」
「分かりました……。息子にも相談してみます」
新浜楓刺殺事件から四年。
ようやく、闇に埋もれていた真実の輪郭が見えてきた。
そして同時に、元妻・青山麻衣からの信頼も芽生え始めていた。
あとは、遺族である新浜剛に、この事実を伝えるべきか否か。
朱音は、剛の代理人弁護士である新城倫史と面会する約束を取り付けた。
新城は、朱音が「正義とは何か」と疑問を抱く原点となった人物……岩間俊輔が起こした過去の事件を担当していた弁護士でもあった。
20年前、ジャーナリストとして初めて取材した加害者家族。15年後、刑期を終えて第二の人生を謳歌する岩間俊輔と、息子を殺され、失意の中で辛い人生を歩み続ける被害者遺族。
本当の「人権」とは、一体誰のためのものなのだろうか?
朱音は『変わりゆく刑務所』の取材を通じ、光の当たる受刑者人権の陰で置き去りにされている「被害者遺族の苦悩」に焦点を当てた、第二の特集を企画し始めていた。
雫石和也の惨劇は、冤罪とネット社会の私刑が生み出した、現代の不可避な構造的犯罪といえる。
この凄惨な真実を突きつけられたとき、世論は一体何を思うのだろうか……。

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