
悪に優しきこの国で −裁かれぬ悪と、救われる悪−【第19話】贖罪の迷宮
この日、青山麻衣は、元夫である雫石和也が収監されている刑務所を訪れていた。
横瀬刑務官に案内されて面会室へ入り、しばらく待つと雫石和也が姿を現した。
数年ぶりに目にする和也の姿は、以前よりいくぶんやつれてはいたものの、悲壮感のようなものは感じられなかった。むしろ、その瞳の奥には芯の通った強い信念すら漂わせているように見えた。

「……和也、久しぶり」
「ああ」
「元気にしてた?」
「ああ」
「あの時は……本当にごめんなさい。私、どうかしていたの」
「ああ……仕方ないさ。あれだけ世間に騒ぎ立てられたんだからな」
「でも……」
「それより、湊の話なんだろ?」
「え……ええ。今日、本当はあの子も連れてきたかったんだけど……『二人の邪魔になるから』って」
「……そうか。あいつも大人になったんだな」
数年ぶりの再会を果たした和也と麻衣は、横たわっていた長い空白を埋めるかのように、静かに心の距離を手繰り寄せていった。……だが、許された面会時間はあまりにも短かい。麻衣は意を決して本題を切り出す。
「湊は転校先の学校で元気に過ごしているわ。いじめのない生活を送っているから、安心して。……それに、あなたのことを今でもちゃんとお父さんとして尊敬しているの」
「えっ……? 俺は、人を殺めた殺人犯だぞ……?」
「ええ。新浜さんの事件は確かにショックだったみたいだけど、あの子がずっと胸を痛めて苦しんでいたのは……『痴漢』の方だったのよ」
「あれは……冤罪だとずっと言ったはずだ」
「ええ。だからね、その冤罪を証明する決定的な証拠が見つかったの。この間、ここにテレビの取材が入ったでしょう? あの時取材に来ていた女性ジャーナリストの方が、当日の映像を見つけてくれたのよ」
「本当か……!?」
「……ただ、当時に示談で処理してしまった案件だから、今さら裁判で冤罪を訴えることはできないそうなの」
「まあ、実際に俺は人を殺した殺人犯だしな……。麻衣……、辛い思いばかりさせて本当にすまないな」
「ううん。私の方こそごめんなさい……ねえ、和也。また面会に来てもいい?」
「ああ、待ってる」
雫石和也が、初めて心を開いた瞬間だった。
その頃、弁護士の新城倫史は、稲村朱音から託された解析映像を、依頼人である新浜剛に見せていた。

「先生……これは一体、何なのですか?」
「……これは非常に、言い出しにくいことなのですが……お嬢さんの惨劇の発端となってしまった当時の映像です。雫石さんの痴漢行為は……誤認逮捕でした」
「えっ……!?」
「確かに、楓さんは雫石和也の手によって命を奪われました。しかし……もしもあの時、楓さんの勘違いがなければ。そして、彼が大手企業に勤める人物としてネット上で拡散されていなければ……事件がここまで肥大化することはなく、楓さんは今も元気に生きておられたはずなのです」
「……そんな……。じゃあ、楓が……楓が悪かったとでも言うんですか!?」
新浜剛は、娘を凄惨に殺害された絶望と加害者への強い憎しみだけを心の糧として、これまで気丈に生きてきた。……だが今、その生きる支えそのものが足元から崩れ去ろうとしていた。
「あいつが……あいつがあんな勘違いさえしなければ……っ!」
一方、稲村朱音は、かつて岩間俊輔に息子を殺害された被害者遺族・鈴木治重の自宅を再び訪れていた。

「……お久しぶりでございます。当時はご遺族のお気持ちを無視した強引な取材をしてしまい、本当に申し訳ありませんでした。あれから20年……もう一度だけ、お話をお聞かせいただけないでしょうか? 本当の意味での『人権』とは何なのかを、改めて見つめ直したいのです」
「あんた……。わしらももう歳じゃから、過去のことに怒ってはおらんよ。好きにするがいい」
「……本当に、ありがとうございます」
稲村朱音は板間の土間に額を擦り付けんばかりの体勢で、深く、深く謝罪の土下座をした。
「あんたの作ったこの間の『変わりゆく刑務所』、見たぞ。今の世の中は、犯罪者ばかりが随分と報われておるんじゃ……と痛感したよ。わしら被害者遺族は、何一つ報われておらんというのにの……」
「……今度は、犯罪被害者の側から見た人権について特集を組みたいと考えています。20年前、私が駆け出しの頃に初めて取材させていただいた岩間俊輔の事件の『現在』を追いかけたいのです。本来守られるべきだった人権がどうなったのかを……」
朱音は鈴木治重から、服役中の岩間俊輔から一方的に届く勝手な謝罪の手紙、それによって精神を苛まれ憔悴していった妻の姿、頼りにできなくなった息子の嫁、そして国からのあまりに貧弱な補償制度の実態について、痛切なまでの証言を直接聞くことができた。
大切な息子を理不尽に奪われた老夫婦が、どれほど過酷な苦難を強いられ続けてきたか……。
朱音は改めて、己の職業と現代社会に対する強い憤りと虚しさを噛み締めていた。
世間の関心が集まるセンセーショナルな話題ばかりにスポットを当て、消費していく我々マスコミ。そしてそれを面白おかしく叩き、玩具にするネット民。
そこには、本当の意味で傷つき、置いてけぼりにされた被害者遺族への温かい眼差しなど存在しない。それは報道の姿勢だけでなく、法や社会が唱える「人権」のあり方そのものにも当てはまるのではないか。
あとは、加害者である岩間俊輔本人への取材を取り付けることができれば、この検証は決定的なものになる。だが……それは極めて困難な道であることが予想された。
本作品はフィクションです。登場人物・団体名等はすべて架空のものです。
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