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Photo by123ribbon

若い父を思い出しながら、いま私は何を悔いているのか

    1週間ほど前に父が永眠いたしました。

    享年92。大往生といえる年齢ではありますが、死因は「老衰」。
    最期は喉の筋肉が衰えて水分さえ取れず、大層苦しみながら息を引き取りました。
    直前の2日間は家族や親戚が代わる代わる訪ねましたが、肝心の臨終時には誰も看取ることができませんでした。たった一人で逝かせてしまったことが、今も残念でなりません。

    私は基本的にnoteではプライベートな話はほとんど書きません。しかし、父が亡くなって初めて知る実家の実情もあり、悲しんではいられないのが現実です。

    細かい事情は省き、今の私が抱く父への“思い”だけは記しておこうと思います。

    長女だからこそ知る若い父

    私は、父が27歳のときの第一子として生まれました。
    当然ですが妹たちと比べると、私は父と過ごした年月がいちばん長く、若い頃の父の思い出も多いのです。
    今はさまざまなシーンが頭に去来しています。

    幼い頃の記憶に登場する父は、とにかく若く、強く、逞しかった。
    父と一緒にいるだけで怖いものなど何もなく、心配ごとも皆無。
    私にとっては頼りになる絶対的な存在でした。

    その父が老い、身体も判断力も衰えたのはいつからだったのでしょう。
    あれほど精悍だった父の覇気が失われていったのは、いつからだったのか。

    河原乞食と呼ぶ「夏の冒険」
    夏になるとよく河原でキャンプをしました。
    後に聞いたところ、京都の木津川だったそうで、山奥のうっそうとした木々に囲まれた川がつくる三角州に、屋根だけの粗末なテントを張り、持参した肉や川で捕れた鮎を焼いて食べたりしていました。

    父が「探検」と称し、ゴムボートで周囲を周回する時間は格別に楽しくて、あのワクワク感は今でも忘れられません。
    ところどころ流れの止まった、底の見えない濃い色の淵ふちが薄気味悪く、よくそこで父が怖がらせるものだから、震え上がった記憶があります。

    今思えば、そんな場所でキャンプなどして、もし鉄砲水でも起きたら大変なことになっていたはずです。
    それなのに、誰も心配せずに楽しんでいた当時は、呑気で、平和そのものでした。
    私にとっては「夏の冒険」でしたが、母はその行事を「河原乞食」と呼んでいました。

    自転車と全力走
    当時の住まいの近所にはスサノオノミコトを祀る八雲神社があり、鳥居前にまっすぐ伸びる参道がありました。そこで若い父とかけっこしたり、自転車で競争したりしたものです。

    父は仕事で家を空けることが多かったので、これらはとても貴重な思い出です。私は小学校に上がるか上がらないかの6歳前後でしたが、一緒に遊んでくれたことが嬉しくてたまりませんでした。

    つぶれたリカちゃんの顔
    妹が生まれたばかりの頃だったと思いますが、しばらく父と同じ布団で寝ていた時期がありました。そのとき、間に置いていたリカちゃん人形が父の下敷きになり、顔が無残に押しつぶされて戻らなくなりました。

    大切にしていたので悔しくて泣いたことは覚えていますが、おそらくまた買ってもらったのでしょう。その後もリカちゃんで遊んでいた記憶があります。

    カミナリ社長
    ちょうど日本の高度成長の波に乗り、父は上手く会社経営を軌道に乗せ、私たち家族は何不自由のない生活を送ることができました。

    以前にもnoteに書きましたが、私がPC操作を覚えたのは高2の17歳のとき。大人に混じって窮屈な思いをしながら受けた講習でしたが、その経験は社会人になって大いに役立ちました。

    とにかく強気な父。相手が違っていると判断すれば誰にでも怒鳴りつけました。
    社員であろうと下請けであろうと得意先であろうと、大きな声でカミナリを落とし、周囲を固まらせるようなことも時々ありました。
    今では完全にパワハラ認定される、典型的な昭和の経営者だったと思います。

    なぜ将来を見据えなかったのか

    私は4人姉妹の長女。三女は19年前、突然の病で亡くなりました。
    今から思えば、それを境に家族関係の歯車が狂い始めていたように思います。

    三女は大人しいながらもしっかり者で、独身だったこともあり、早くから「両親の面倒は自分が見る」と明言していました。その存在が突然なくなり、家族の人生設計は大きく狂いました。

    私と二女は結婚して家を出、以後は独身の四女と両親が実家で暮らしていました。
    しかし、四女は末っ子特有の甘えが強く、両親が老いていくのを見て、私や二女が「いっしょに暮らそう」と何度か提案しても聞き入れず、最後は喧嘩にまで発展して疎遠になってしまいました。

    自分たちの将来を冷静に見れば、そのままではいけないことは明らかだったはずなのに、頑なに受け入れなかった父を、私はどうしても理解できませんでした。今も理解できていません。

    若い頃の「強い自分」を捨てられなかったのでしょうか。
    間違ったプライドだとしても、“弱くなった自分”を認めることができなかったのでしょうか。

    会いに行くと、私にしか分からない昔話をする父はとても素直で穏やかだっただけに、どうして肝心なところで頑固だったのか。
    冷静に先のことを考えれば、あのときこそ折れるべきだったのに。

    どういう選択をしても後悔は残るでしょうが、「強引にでも引き取ればよかった」と思わずにはいられません。


    社長としても父親としても、一生懸命に駆け抜けた人生でした。色々ありましたが、往年の面影もないほど痩せた父の死に顔を見ていると、やはり感謝の思いしか浮かびません。

    ~~いままでお疲れ様。これからは何も考えず、ゆっくりしてください。

    ◇◇◇


    告別式までは無事に済ませましたが、これからしなければならない事は山積です。
    この記事のコメント返信も含めて、しばらくはまともにnoteはできないと思いますので、どうかご了承下さい。



     
     
    エッセイスト (主に読書、歴史に関して書いています。 1961年生まれ大阪府出身。読書好き。歴史好き。ハンドメイド好き。妄想好き。 著書「レキジョークル奥の枝道」シリーズ7冊目をただいま執筆中。<https://amzn.to/3vgIGz9>

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