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「必然」か「偶然」かの見極めで晩年は変わる

    前回、「無知の知」こそ人生に最も大切なことだと、半ば自分に言い聞かせるように書きました。

    その後これからの人生をどう楽しむかを考える最中、ある人と十数年ぶりに近所のスーパーでばったりと会い、意気投合して、翌日にはランチへ行ってたっぷり話す機会を得ました。

    確認すると、前回もばったり出会って”実のある話”をしてからすでに14年も経っているようです。
    当時のブログに8年ぶりだと書いているので、彼女「Tさん」と知り合って少なくとも22年以上も経つと知り驚きを隠せません。

    今となっては初対面は誰の紹介だったのか、お互いに思い出すことも困難なのですが、Tさんとの会話はテンポが良く、内容も深いものになる不思議な人で、少なくとも私にとってはとても希少な人なのです。

    これからの事を多少なりとも描こうとしている時期だけに、なんというタイムリーな出会いだろうかと思い、これは私に必然的に訪れたものだと確信できるものになりました。

    珍しく哲学もどきの話が続きますが、今書いておくべきものだと思うのでここに記録しておます。


    人との出会いは全て必然

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    人生には、想像もできなかった出会いや、出来事は起こりがち。
    大袈裟に言えば、それをきっかけに自分の考え方や方向性は変わる時があります。
    でもそれは全て自分で選択している事で、出会った「人」や「事」は単なるキッカケに過ぎないのです。
    要はそれを見過ごすか、立ち止まって考えてみるかの「選択」が大事なのです。

    会う回数が繋がりを
    深めるわけではない

    頻繁に会っていても、お互いに平行線のまま変化のないお付き合いの人がいます。
    いや、頻繁に会うからこそ、刺激を感じなくなっているのかもしれません。

    例えばこのnoteなどのSNSで知り合った方々は、ほとんどが実際に会った事はないのですが、日頃の投稿内容からその人となり●●●●が推測できて、頻繁に会う人よりも精神的には深く繋がっていると感じたりします。

    もちろん会って実際に話してみないとわからない部分がほとんどかもしれません。
    しかし人と人との関係は、頻繁に会う事ではなく、ましてやいつも行動を共にすることでもなく、内面的なことを知るには、むしろSNSでの出会いの方が近道なのかもしれません。

    迷いがある時の
    出会いに意味がある

    ましてや、自分が大なり小なり「迷い事」を心の片隅に抱えている時、思いがけなく出会う人は、絶対に何かしらの意味があると私は思います。

    いくら自分はこれでいいと思っていても、なぜか魚の小骨が喉に引っかかるように微量の葛藤が頭をかすめてしまう時ってありませんか?

    それはもしかしたら、自分サイドだけの思い込みかもしれないのに、どうしても拭えないのは、自分の中で決め手になる「何か」がないからでしょう。

    その「何か」が見つからない時に、その最後のピースが見つかるような出来事に直面することが、人生にはあります。
    それは一見すると「偶然」のようですが、自分にとってはタイムリーな「必然」なのです。
    肝心なのは、それを自分自身がどう受け止めるかです。


    迷った時は「自分軸」で考えてみる

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    さて、Tさんに話を戻します。

    あまりにも久しぶりなので、お互いの近況を聞き合った後の彼女の言葉に、ギョッとなりました。

    ~自分の考え方を変えてみると、何もかも上手く回るようになった~
    ~上手くいくのもいかないのも、全て自分次第~

    「それ何??」
    もしかして何か新手の宗教勧誘の話かと、信頼した人ではあっても身構えてしまったのが正直なところでした。

    自分の考え方ひとつで物事が好転するなんて、にわかには信じ難く、いったいどんなカラクリがあるのかと疑ってしまうのも当然ですよね。

    自意識過剰は優柔不断を招く

    例えば、その場の空気を読み過ぎて意見を言えない時ってありませんか?
    あるいは、違う提案をするとみんなに引かれてしまうとか。
    結局、他人の目を気にするあまり、自分の思いを二の次に置いてしまう事は、日常生活ではよくある事だと思います。

    そんな時は、自分の”ささやかな決断”など、周りは何とも思っていないという視点に変えてみると、ただの勝手な自分だけの思い込みに過ぎないものだと気付くはずです。
    それをさも重要案件●●●●のように勝手に思い込んで決断できないのは、一種の「自意識過剰」というもの。

    言いかえれば、完全に独善的な一人よがりに等しいのです。

    協調性を考えて周りに合わせているつもりが、全くの逆効果で、それどころかその場で行動を合わせても、その後の「思い」の乖離は避けられません。
    例えばグループ行動をする中で、自分だけが考えが違うと感じたなら、勇気を出して反対意見を述べても良いのです。

    決して皆に合わせる事だけが美徳ではありません。

    自分軸 ≠ 自分勝手

    Tさんも私に伝えるための適した言葉がすぐには見つからないようで、様々なエピソードを話してくれるのですが、私はなかなか「うさん臭さ」が抜けずにいました。

    そこでやっと出てきたのは、自分軸に考えるという事です。

    AIによると「自分軸」とは、
    他人の意見や社会の評価に左右されず、自分の価値観や信念、目指すビジョンなどを基準にして物事を判断し、行動する考え方。

    あれこれと周りの事を考えるのは無用で、
    自分はどうしたいかを優先した見方をし、つい考えがちな「どう思われるか」という思考など必要はありません。

    ただし、そこには必須のものもあります。
    ・我欲を捨てる
    ・感謝を忘れない

    ここでまた宗教の話かと思い身構えましたが、確かに、欲があって感謝がないと、「自分軸」はただの「自分勝手」になってしまいます。

    自分軸を持つ=自分を大切にする

    人生を60年以上経てきた今こそわかったのは、見せかけの「仲良しこよし」など不要だという事です。
    人生のタイムリミット、さらには自分の健康寿命が刻一刻と迫る年代だからこそ、人に合わせている時間はありません。

    自分軸で物事を捉えて決断することは、自分を大切にすることに繋がります。
    協調性だけを考えていると、自分にとっては不本意な方向に進んで無理を強いられてしまうと、もうそれは「友人関係」とは言えません。


    人生は決断の連続だからこそ

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    過去記事にも書きましたが、自分という「個」を大事にするのは一番に優先べき事です。
    その上で、その関係がお互いに心地よく持続できる人のみが「友人」と呼ぶべき人だと言えます。

    人間関係で最も尊重すべきは協調性ではなく、お互いに無理なく自分を貫き、相手を尊重できるかどうかが大きなポイントとなります。

    幸せな老後は、成功するための特別で大きな努力ではなく、むしろ小さな決断と選択の積み重ね次第で出来上がるものではないでしょうか。

    直面した物事の必然性をいかに感じ取るかが、日頃から必要であり、そしてそれをしっかりキャッチするために、「3つの心構え」を提唱します。

    ・自分軸で決断する
    周りの意見に惑わされずに、他人の正解ではない「自分の正解」を優先する。

    ・余白やゆとりを持つ
    がんばる日とがんばらない日のメリハリ、心地よい生活リズムを意識する。

    ・未来の自分をイメージする
    「こうなりたい」と夢見て、常に未来の幸せをイメージする。


    これが、この日のTさんとの会話の中で得た教訓です。
    当たり前の事かもしれませんが、これらをなんとなくでも念頭に置くだけで、人生の必要事項をキャッチするアンテナを持つ事ができるはずです。

    年を経ると人との出会いは激減し、刺激を得る機会もなくなってきますが、ちょっとした”心構え”を常に持つことで、若い頃とはまた違った充実感を獲得できるのです。



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    エッセイスト (主に読書、歴史に関して書いています。 1961年生まれ大阪府出身。読書好き。歴史好き。ハンドメイド好き。妄想好き。 著書「レキジョークル奥の枝道」シリーズ7冊目をただいま執筆中。<https://amzn.to/3vgIGz9>

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