
記録と展示
楽しい時間を残すために撮っていたはずが、撮るために楽しい時間を組み立て始めることがある。
料理が来れば、まず画面に収める。景色を見れば、よく写る場所を探す。
写真を撮ること自体に何の問題もない。それが楽しみの人もいるし、あとから見返すことで、その日の喜びをもう一度味わえることもある。
奇妙な逆転が起きるのは、残したいものより、見せやすいものが優先され始めたときである。
食べたいものより、写真に映えるものを選ぶ。自分が落ち着く場所より、訪れたと自慢できる場所を選ぶ。目の前の相手との会話より、楽しそうな二人に見える一枚を優先する。
こうして、その時間をどう過ごしたいかという問いが、その時間をどう見せたいかという願望へとすり替わってゆく。
すると、いつもの食事も、近所の散歩も、何も起こらない休日も、途端に見劣りし始める。
本人がどれほど心地よく過ごしたかよりも、他人にどれほど楽しそうに見せられるかが、いつの間にか一日の評価基準になっているからだ。
そして、穏やかだった一日を「今日は何もしなかった」と呼び始めるのである。
何もしなかったのではない。人に見せびらかすほどの出来事がなかっただけだ。
楽しみがなかったのではなく、楽しそうに見せる材料がなかったのである。
とうとう、誰にも見せない時間にまで、展示品としての出来を求め始める。
誰に見せる予定もない休日でさえ、見栄えのよい出来事がなければ物足りない。
観客もいないというのに、実に熱心な展示会である。
思い出を残すための記録だったはずが、いつしか思い出そのものが、展示品の選考にかけられているのである。