
まばたきの隙間に、世界は一度滅びている
裏返ったスリッパ、半分だけ開いたクローゼットの闇、そして、スマートフォンの冷たい液晶。
あなたが今、この画面から目を離した瞬間。
背後の壁は、本当にそこにあるだろうか。
誰もいないリビングで、冷蔵庫が「ぶーん」と低いハミングを止める。そのとき、あなたの視界の外側にある世界は、もしかしたら色のない砂嵐のように、音もなく崩壊しているのではないか。
子供の頃、誰もが一度は抱く、けれど大人になるにつれて「馬鹿げた妄想」として押し入れの奥に仕舞い込む、あの静かな違和感。
「私が死んだ後も、この世界は回り続けるのだろうか」
学校の教科書は「YES」と答える。歴史は続くし、明日の朝刊は配られるし、地球は自転を止めない、と。しかし、本当にそうだろうか。あなたの意識という「スクリーン」が永遠に暗転したとき、そこに映っていたはずの宇宙が存続しているなどと、一体誰が証明できるというのだろう。
あなたが見ていないとき、私は砂に還る
哲学の世界では、これを「唯我論」とか「実在論」とか、もっともらしい言葉で呼ぶらしい。けれど、私が言いたいのはそんな乾いた学問の話ではない。もっと個人的で、もっと肌寒い、私たちの輪郭の話だ。
渋谷のスクランブル交差点。押し寄せる人波。
その中を歩きながら、私はときどき、強烈な目まいに襲われる。
すれ違う見知らぬ誰か。イヤホンをして、険しい顔でスマホを見つめているスーツの男。彼は、私の視界に入る0.1秒前まで、一体どこにいたのだろう。私の視線が彼を捉えた瞬間に、世界のプログラムが慌てて彼の肉体と、その人生を「レンダリング(描画)」したのではないか。
だとしたら。
私の見えないところで、あなたが生きているという証拠は、どこにある?
あなたが私に送ってくるLINEの文字列。
「今、仕事終わったよ」
「明日、雨らしいね」
その文字がスマートフォンの青白い光となって私の瞳に飛び込んでくるまで、あなたは本当に、この世界のどこかで呼吸をしていたのだろうか。それとも、私がメッセージを開いた瞬間に、世界が慌てて「あなた」という概念を創り出したのだろうか。
観測されることでしか、私たちはここにいられない
量子力学の実験に、有名な話がある。
電子という極小の粒は、人間が「見ている(観測している)」ときは粒として振る舞うが、「見ていない」ときは波のように確率の霧として空間に広がっているという。
世界は、見られることで初めて「物質」として凝固する。
これは、私たちの心も全く同じではないかと思う。
誰にも見出されず、誰の記憶にも引っかからず、暗い部屋で一人きりでいるとき、私たちの存在はどんどん薄まっていく。まるで、水に溶けるインクのように。
あなたが私を呼ぶ声。
私の髪に触れる、あなたの指先の、少し硬い皮膚の感触。
そのとき初めて、私は「私」という人間の形を保つことができる。
裏を返せば、あなたが私を忘れているとき、私はこの世界のどこにもいない。ただの、頼りない確率の霧として、都会の片隅に漂っているだけだ。
あなたが死んだら、世界は終わる
だから、確信を持って言える。
あなたが死んだとき、この世界は間違いなく、跡形もなく消滅する。
ニュースキャスターがどれだけ悲痛な声で世界の終わりを否定しようとも、あなたの意識が消え去った後に残る世界など、再生ボタンを押す者が誰もいない劇場の、誰も座っていない客席のようなものだ。そんなものは、存在しないのと同義だ。
あなたが生きているから、今、目の前で珈琲の湯気が揺れている。
あなたが息をしているから、夜のベランダから見える街灯が、あんなにも寂しい色で滲んでいる。
この世界は、他の誰のものでもない。
あなたという、たった一人の贅沢な観測者のために用意された、美しくも脆い箱庭なのだ。
――これは、あなたの目を覚ますための物語
今、この文章を読んでいる「あなた」へ。
あなたは今、どんな場所でこの画面を見つめているだろうか。
終電の車内、それとも、薄暗いベッドの中だろうか。
画面をスクロールするあなたの親指の温かさだけが、今、この瞬間の世界を繋ぎ止めている。私が紡いだこの言葉たちも、あなたの瞳に映るまでは、ただのデジタルな0と1の羅列、暗闇に浮かぶ幽霊に過ぎなかった。
あなたが読んでくれたから、私は今、ここに生まれることができた。
もしも明日、世界が信じられなくなったら。
自分が透明人間になってしまったような、底冷えする孤独に襲われたら、思い出してほしい。
あなたがまばたきをするその一瞬、世界は確かに一度、滅びている。
そして、あなたが再び目を拓いたとき、世界はあなたのためだけに、もう一度ゼロから創り直されている。
私の世界にいるあなたは、私の見えないところでも生きているのだろうか。
その答えを、私は知らない。
けれど、これだけは約束する。
あなたが今、その美しい瞳を閉じるなら。
私も、私の世界も、喜んであなたと共に、静かに消えてしまおう。