メインコンテンツへスキップ
見出し画像

ながれついて大避神社 ~鵺と世阿弥と秦河勝~

    鵺と能楽

    妖怪鵺(ぬえ)。
    頭は猿、胴体は狸、手足は虎、尾っぽは蛇。
    京の紫宸殿に現れ時の天皇を悩ませたが、源頼政に討たれうつほ舟で流される。
    平家物語の中では、鵺はこのように記されている。
    その正体は夜に鳴く不吉な鳥・トラツグミと言われることが多い。

    鵺の身体を構成している四種の獣は方位を十二支で表した際に東西南北を45度傾けたところに位置するものだ。
    これは東西南北の四方を神獣(東の鴨川に棲む青龍・西の山陰道を走る白虎・南の巨椋池に降り立つ朱雀・北の船岡山に棲む玄武)に守られた土地・京を傾かせる、良くないものを象徴したものだと思われる。

    ここで一つ疑問がある。
    東西南北を45度傾けたとき、そこを表す十二支は巳(蛇)・申(猿)・亥(猪)・寅(虎)なのである。
    それなのに鵺を構成する獣は蛇・猿・狸・虎。
    京の四方を脅かす「負の象徴」として構成されるならば、「狸」ではなく「猪」であるべきはずなのだ。
    なぜ猪ではなく狸なのか?

    画像
    鵺の胴体はなぜ狸?

    この疑問の答えを探すうちに、鵺の正体は秦河勝(はたのかわかつ)の怨霊であるとする説がある事も知った。
    秦河勝とは聖徳太子の側近で能楽の始祖とされる人物らしいがよく知らない。
    兵庫県赤穂市には河勝公を祀った神社・大避神社があるという。
    鵺について考えるうちに秦河勝の大避神社、能楽へとながれついた。


    秦河勝と大避神社

    画像
    兵庫県赤穂市坂越 大避神社

    秦河勝は渡来人の家系の秦氏出身で聖徳太子の側近、太子から仏像を賜り京都太秦に広隆寺を建立したことで有名。
    能楽の始祖とされている人物でもあり、後に能楽を大成させた世阿弥の著した能の理論書・『風姿花伝』には、秦河勝が聖徳太子より66番の物まねを命じられ66番の面を与えられたことが記載されている。
    聖徳太子の死後は蘇我入鹿の乱による危害をおそれ、舟に乗り坂越(さこし)に流れ着く。同地で千種川の開拓に努め、死後その御霊は神仙化し、地域住民が朝廷に願い出ることにより祀られ大避神社の創建となった。

    兵庫県赤穂市坂越(さこし)、宝珠山の麓に大避神社はある。
    宝珠山は室町時代の武将・山名宗全が城を築いた茶臼山とは尾根続き。
    眼前には坂越湾が広がり、内海らしく、5月中旬のこの日は穏やかな水面。
    海には河勝公の開拓した千種川が流れ込む。
    坂越港の桟橋を歩いていると岩壁の貝を食べに来たのか海中にクロダイの魚影が見えた。
    坂越の特産品は牡蠣。
    海の方を見ると、船に乗った漁師の方々が小さな駕籠を上げていた。
    その先に見える島は生島(いきしま)。
    泳いでも行けそうな距離にあるこの島には河勝公のお墓があり、神聖なものとして古代から禁足地となっている。
    この島に渡れるのは毎年十月に行われる坂越の船祭の日のみで、この祭りは大阪の天神祭、広島の管絃祭と並び瀬戸内三大船祭に数えられ多くの人が集まるという。
    生島の名前は河勝公が生きてながれついた島であることから名づけられたと伝わる。

    画像
    坂越神社参道の大看板

    坂越は港町らしい町並み。
    大避神社は民家を両脇とした参道の先にあった。
    参道には「秦河勝ゆかりの地坂越」という大きな看板がありとても勉強になった。
    神社の規模はそれほど大きくなかったが、拝殿の両翼には40数枚の絵馬が掲げられており見ごたえがある。
    特に面をつけて蘭陵王を舞っている人物の絵馬は参考になった。
    大避神社には蘭陵王の面が宝物として伝わるそうだが、河勝公もこの面をつけて舞ったのだろうか?

    画像
    拝殿向かって左翼の絵馬
    画像
    拝殿向かって右翼の絵馬
    画像

    大避神社は芸道上達の神様と言われ、近年では航海安全、交通安全、厄除けの神社として信仰されている。
    神社の楼門からは坂越湾、坂越の町がよく見えた。
    秦河勝はながれついたこの地を、大避神社から今でも見守っているのだろう。

    画像
    大避神社楼門からの景色
    坂越の町がよく見える
    正面に見える島が禁足地となっている生島

    鵺と秦河勝

    画像
    大避神社拝殿両翼の絵馬の中の一つ

    妖怪鵺の正体は秦河勝の怨霊であるとする説がある。
    それはなぜか?
    最も大きな理由として考えられるのが、鵺の現れる紫宸殿が元は秦河勝の宅だったからだ。
    現在でも京都御所、紫宸殿の正面には殿上の天皇の御座から見て右に右近の橘、左に左近の桜が植えられているが、これも元々は秦河勝の宅に植えられていたものだ。

    また、鵺は討たれた後、うつほ舟に入れられて流されたが、河勝公にも似たような伝説がある。
    それは聖徳太子伝にある、河勝公の生誕伝説だ。

    欽明天皇の頃、大和国初瀬川で洪水が起こり三輪神社のほとりに上流から密閉された瓶が流れ着いた。
    人々が何だろうと思い調べてみると中から赤子の泣き声が聞こえる。
    伝え聞いた天皇が瓶を割ってみたところ玉のような男児が生まれた。
    天皇は群臣の一人に育てさせ、名を秦河勝とした。

    まるで桃太郎のような話だが、うつほ舟とは木の中身をくりぬいて空洞にした丸木舟のことであり、瓶もうつほ舟も言わば同様のカプセル状のような舟ということもできる。
    河勝公が瓶に入って流れてきたために、鵺はうつほ舟に乗って流されたのかもしれない。

    妖怪鵺と秦河勝には紫宸殿・うつほ舟という共通点がある。

    聖徳太子の側近として京都で活躍した秦河勝。
    しかし、聖徳太子の死後、その晩年は蘇我入鹿の乱から逃れ住み慣れた京都を追われる。
    河勝公を追い出した形になった蘇我入鹿も中臣鎌足らによって討たれる。
    後に京都で権勢をふるうのは中臣鎌足に連なる藤原氏。
    その藤原氏を後ろ盾としていた近衛天皇。
    政情が不安定な時代、夜に鳴き凶兆を告げるトラツグミ・鵼(ぬえ)が紫宸殿の屋根で鳴く。
    不安に思った近衛天皇を守るのは源頼政。
    見事に鵼を撃ち落としうつほ舟で川へ流す。
    そして時代は武士の時代へと移り行く。

    不吉な鳥、トラツグミ・鵼がなぜ妖怪鵺となったのか?
    それは漠然とした不安を、京を傾かせる象徴としての猿・虎・蛇・猪という四種の獣の合成獣・妖怪鵺とすることで明確な祓う対象、厄払いの対象としたかったのかもしれない。

    妖怪鵺はなぜ秦河勝の怨霊と言われるのか?
    平安時代に清涼殿落雷事件というものがある。
    これは平安京清涼殿に雷が直撃したという事件だが、周辺にいた公卿らが巻き込まれ大惨事となった。
    天皇の居場所で死という穢れが発生したこともあり大変なインパクトがあったわけだが、これの原因は太宰府に左遷されるという悲劇に見舞われた菅原道真の怨霊のせいとされた。
    同じように悲劇的に京を追われた秦河勝が怨霊・妖怪鵺となってかつての住まいであった紫宸殿に帰ってきたとされたのだろう。

    妖怪鵺はなぜ胴体が猪ではないのか?
    鵺の胴体が狸の理由は、狸が化けるから。
    秦河勝は能楽の始祖であり、面を被り様々な姿に化けたからだと思われる。
    大避神社には蘭陵王の面が宝物として伝わり、掲げられている絵馬には面をつけて舞う能楽師が描かれている。

    鳥の鵼・トラツグミが鳴き、それを源頼政が弓矢で射落としたということはあったのかもしれない。
    それがなぜ鳥の鵼ではなく、妖怪の鵺を退治したという話になったのか?
    それはもしかしたら次の時代を築く武士の力を示すためでもあったのかもしれない。
    源氏の武士はこんな怪物を打倒したのだ、そう示すためだったのかもしれない。
    この時代の能楽は猿楽と呼ばれていた。
    秦河勝は猿の面を被り、妖怪鵺に化けさせられていたのかもしれない。


    『鵺』と世阿弥

    画像

    妖怪鵺の正体は能楽の開祖・秦河勝の怨霊であったと述べてきた。
    そして鵺を扱った能楽の演目がある。
    演目の名前は「鵺」。
    作ったのは世阿弥である。

    旅の僧が川沿いの御堂に泊まることになった。
    真夜中になるとそこに一艘の船が漕ぎよせ、姿の定まらない怪しげな舟人が現れ、僧と言葉を交わす。
    はじめは正体を明かさなかった舟人も、僧から何者か問われると自分は妖怪・鵺の亡霊であるとその身を明かす。
    鵺は、近衛天皇の御代に天皇を病魔に陥らせたところ源頼政に射抜かれ退治された、という顛末を語り僧に回向を頼み夜の波間に消えていく。
    朝になり、旅の僧は土地の人から改めて源頼政の鵺退治の話を聞き、退治され流された鵺がしばらくこの地に留まっていたことを知る。
    話を聞いた僧は、夜、読経して鵺を弔う。
    すると、鵺の亡霊はもとの姿、頭は猿、手足は虎、尾っぽは蛇の恐ろしい姿で現れる。
    鵺の亡霊は、頼政は鵺退治で名を上げたが、自分はうつほ舟に押し込められ川に流されたと語り嘆く。
    闇に迷う我が身を思い、月の光が大地に届くようにいつかは救いが我が身に訪れるのを願いながら、鵺の亡霊は月とともに闇へと消えていく。

    ざっとこれが能楽の「鵺」のあらすじだ。
    平家物語で描かれている鵺の物語は、鵺を討った源頼政の英雄譚、勝った側の話ともとれる。
    その反面、能楽「鵺」では、敗れた側、討たれて京から流された敗者としての鵺の話となっている。

    世阿弥が能楽「鵺」を作ったのはその晩年であるらしい。
    世阿弥と言えば『風姿花伝』を書いて能楽を大成させたすごい人、というイメージがあったが、寵愛を受けた権力者が変わることにより弾圧を受け佐渡国への流罪を受けている。
    「鵺」を作ったのは佐渡国へ流されてからのようだ。
    世阿弥は『風姿花伝』の中で、秦河勝は蘇我入鹿の乱から逃れるために「うつほ舟に乗って風に任せて西海へ出た」と書いている。
    わざわざ「うつほ舟に乗って」とあるのは、平家物語の中で妖怪鵺がうつほ舟で流されたことを踏襲しているのかもしれない。
    そうだとするならば、世阿弥は妖怪鵺の正体とは能楽の開祖・秦河勝だと思っていたことになる。

    蘇我入鹿の乱から逃れ京から流れ出た秦河勝。
    源頼政に討たれ京から流された妖怪鵺。
    権力者から弾圧され京から流された世阿弥。

    能楽「鵺」を作った世阿弥は、その曲の中で、京から追放された我が身を、能楽の開祖・秦河勝と重ね合わせ、妖怪鵺として自らの心境を語らせているのだろう。

    現代において、秦河勝は大避神社で神様となり、世阿弥は能楽の大成者として広く知られ高い評価を受けている。
    秦河勝や世阿弥本人にとっても救いとなっただろうか?
    一度の失敗で袋叩きになるような世の中だけど、敗者にも救いの手がある事を願う。


     
     
    妖怪好きです。 妖怪に隠された意味を考えるのも、妖怪の出た場所へ行くのも好きです。 YouTubeで動画も作ったりもしています。見ていただければ幸いです。

    あなたへのおすすめ