
✡あと13日✡異世界リゾートの構想は一体いつ始まったのか。
異世界リゾートの構想は一体いつ始まったのか。
おそらく、小学校2年生。
将来の夢を書くという授業があったのを、今でも覚えています。
その宿題に、私はケーキ屋さんの絵を描きました。
ショーケースに並ぶケーキと、ニコニコ笑う自分。
今思えば、私の夢の原点は、そんな小さな絵の中にあったのかもしれません。
毎日ケーキが食べたい。
農家の本家の長男として生まれた私は、多くの親戚たちから可愛がられ、農家を継ぐ後継ぎとして育てられました。
私が育ったのは、九州の山奥。
自動販売機も半径10キロ以内にはないような場所でした。
そんな私が大好きだったのは、甘いもの。
その中でも、クリームの上にフルーツが乗ったケーキや、チョコレートクリームが乗ったケーキは、子どもの私にとって、とても贅沢な食べ物でした。
自分の誕生日か、兄弟の誕生日にしか食べられない。
特別な日にだけ登場する、憧れの食べ物。
そんなケーキを毎日食べたい。
ケーキ屋さんになったら、毎日ケーキが食べられる。
小学2年生の私が見つけた将来の夢は、そんな単純なハングリー精神から始まりました。
でも、今になって思えば、そこにはもうひとつ大切なものがあったように思います。
自分が好きなものを、思う存分楽しみたい。
そして、いつか自分の手で、それを作ってみたい。
当時は、そんなことまで考えていたわけではありません。
ただ、ケーキが大好きだった。
それだけは、今でもはっきりと覚えています。
母が作ってくれた、手作りのお菓子。
誕生日にしか食べられないケーキでしたが、家では母がホットケーキやパウンドケーキを作ってくれることもありました。
ほうれん草のパウンドケーキを作ってくれたことも覚えています。
母はとても丈夫な人で、砲丸投げでは熊本県の大会記録を持っているほど。
若くして父のもとに嫁いだ母は、当時としては珍しいお見合い結婚でした。
農家の仕事をする父と一緒に、母もまた、いつも一生懸命に働いていました。
そんな母も、食べることが大好きな人でした。
母がよく話していたことがあります。
嫁ぐ前の実家には、オーブンがなかったという話です。
父には4人の姉がいて、父はその末っ子でした。
母が嫁いだ家には、すでにオーブンがあったそうです。
そのオーブンが、とても嬉しかった。
母はそんな話をしてくれました。
今から40年以上前。
今では当たり前のようにあるオーブンも、当時の暮らしの中では、きっと特別な存在だったのだと思います。
母がそのオーブンで何を作っていたのか。
どんな気持ちでお菓子を焼いていたのか。
子どもの私は、そこまで深く考えていませんでした。
ただ、家にはオーブンがあって、母がお菓子を作ってくれた。
そして、いつしか私自身も、お菓子を作るようになりました。
もしかすると、私のケーキ作りの原点は、母が喜んで使っていた、あのオーブンだったのかもしれません。
じゃんけんに負け続けた少年。
子どもが成長するにつれて、父と母の農作業を手伝う機会も増えていきました。
姉と妹がいる私は、3人で家のお手伝いをしていました。
お手伝いの内容は、3種類。
お風呂を洗うこと。
洗濯物を畳むこと。
そして、ご飯を作ること。
学校から帰ってくると、みんなでじゃんけんをして、勝った人から好きなお手伝いを選んでいました。
ここだけの話、私はとてもじゃんけんが弱いです。
なぜか分からないけれど、「最初はグー」と言われると、グーを出してしまう。
そんな人間です。
当然、いつも負けます。
そして、最後に残るのが、一番時間のかかる食事作り。
私は祖母と一緒に、ご飯を作っていたのを覚えています。
今思えば、なかなか大変なお手伝いだったと思います。
お風呂を洗うことも、洗濯物を畳むことも、食事を作ることも、どれも父と母は喜んでくれました。
でも、料理には、ほかのお手伝いとは少し違う喜びがありました。
仕事から疲れて帰ってきた父と母が、箸を持てばご飯を食べられる。
自分が作った料理を、おいしそうに食べてくれる。
「ありがとう」
「おいしい」
そんな言葉をもらえる。
当時の私は、ただ喜んでもらえることが嬉しかったのだと思います。
そして、自分は料理が得意なんだと、少しずつ自信を持つようになりました。
今になって振り返ると、この経験こそが、私の中にある「人を喜ばせたい」という気持ちの原点なのかもしれません。
男の子なのに、料理ができる。
いつもじゃんけんで負けていた私は、料理を作る機会がとても多くありました。
そのおかげなのか、料理はどんどん上達していきました。
多くの親戚が家に遊びに来たときには、自分の手料理を振る舞うこともありました。
そして、親戚たちから喜んでもらえる。
自分が作った料理で、人が喜んでくれる。
それが嬉しくて、自分は料理がとても上手なんだと、誇りに思っていました。
ところが、そんな私に、親戚からこんなことを言われることがありました。
「男の子でこんなに料理ができると、あなたの奥さんはとても苦労するよ」
子どもの私は、なんでそんなことを言うんだろうと思いました。
料理ができることは、いいことじゃないのか。
おいしいものを作れて、誰かに喜んでもらえる。
それの何がいけないんだろう。
今から40年ほど前の九州の片田舎。
男の人が料理をすることに対して、今ほど寛容ではなかった時代だったのかもしれません。
器用な子だと思ってもらえていた一方で、男の子が料理ばかりしていて大丈夫なのだろうか。
そんな気持ちもあったのだと思います。
でも、私は料理ができることを、とても誇りに思っていました。
そして、小学4年生になる頃には、レシピを見れば、だいたいの料理が作れるようになっていました。
ただ、私には、どうしても作りたいものがありました。
それは、やっぱりケーキでした。
ケーキ作りには、難易度がある。
私にとって、ケーキ作りには難易度がありました。
一番簡単なのは何かと聞かれたら、当時の私は、クッキーやパウンドケーキと答えていたと思います。
材料を混ぜて、ベーキングパウダーを入れて、焼く。
もちろん、それだけで簡単においしくできるわけではありませんが、子どもの私にとっては、比較的失敗の少ないお菓子でした。
次に簡単なのは、チーズケーキやフォンダンショコラ。
メレンゲを使うこともありますが、多少沈んでしまっても、おいしく食べられる。
では、難しいケーキは何か。
私が挙げるのは、スフレチーズケーキです。
焼く温度。
焼き時間。
レモン汁の量。
焼き目の色。
そして、膨らんだあとに、しぼんでしまわないか。
絶妙な焼き加減で仕上げなければ、おいしいケーキにはなりません。
ところが、私が本当に作りたかったのは、そんなケーキでもありませんでした。
私が一番好きだったのは、ふわふわとした、スポンジのようなケーキでした。
シフォンケーキも焼きました。
時間をかけて、丁寧に焼けば、ある程度おいしく作ることができました。
それでも、どうしても納得できないケーキがありました。
それが、スポンジケーキです。
どうしても焼けない、スポンジケーキ。
スポンジケーキ。
たったそれだけのものが、私にはどうしても焼けませんでした。
ほかのケーキは、そこそこおいしく作れる。
料理だって得意。
レシピを見れば、だいたい何でも作れる。
それなのに、スポンジケーキだけは、どうしてもうまくいかない。
図書館で本を借りました。
本に書いてあるレシピを試しました。
本屋さんで立ち読みをして、スポンジケーキの作り方を覚えました。
いろいろなレシピを試しました。
それでも、おいしく焼けない。
何度も何度も作っては失敗しました。
そして、失敗したことが恥ずかしくて、家族に知られたくなくて、硬くなってしまったスポンジケーキを、自宅のいけすにいる鯉に食べさせてごまかしていたのを覚えています。
今思えば、ずいぶん申し訳ないことをしていた気もします。
鯉にとっては、思いがけないおやつだったのかもしれません。
でも、当時の私は真剣でした。
自分が食べたいと思う、ふわふわのスポンジケーキを作りたい。
それだけだったのです。
料理は好き。
ケーキ作りも好き。
でも、どうしてもできないことがある。
そのとき、私はケーキ作りに一度、挫折したのだと思います。
中学校への進学。そして、ケーキから遠ざかる日々。
そんな私に待っていたのは、中学校への進学でした。
家から10キロ以上離れた場所にある中学校。
山奥に住んでいた私にとって、毎日そこまで通うことは簡単ではありませんでした。
そのため、中学校では寮生活が始まりました。
実家に帰れるのは週末だけ。
小学校の頃とは比べものにならないほど忙しい毎日でした。
勉強。
部活動。
寮での生活。
その中で、いつしかケーキを作る機会も少なくなっていきました。
中学時代の私は、陸上部に所属していました。
とても強豪の陸上部でしたが、私の代は、たまたま自分しか部員がいませんでした。
どれくらい競合かというと、今お正月の風物詩といえば箱根駅伝
その箱根駅伝で幾度となる優勝を重ねているあの大学
初出場のエース区間を走ったのは私が毎晩深夜2時までスポーツマッサージをしていた選手です。
うちの学校をでれば箱根に行く
そんな強豪中学の陸士部員でした。
地区大会で優勝することも多く、優勝すればチームのキャプテンで大会で選手宣誓をしなければいけない。
そんなプレッシャーもありました。
練習は朝5時から。
1日10キロ走り、お昼休みには鉄棒。
授業が終われば、さらに20キロ走る。
毎日フルマラソンをするような、そんな過酷な部活動でした。
部活動を頑張れば頑張るほど、成績も上がっていきました。
けれども、私には、もうひとつ大きな悩みがありました。
吃音です。
人前で話すことが、とても苦手でした。
県大会で選手宣誓をしなければいけないというプレッシャーから、吃音は日に日に激しくなっていきました。
人前では「おはようございます」もまともに言えない。
「こんにちは」も言えない。
そんな生活を送っていました。
強豪校での部活動は、練習だけで終わりません。
寮に帰ってからも、厳しい生活が続きました。
洗濯機が少ない中、先輩たちの洗濯物を洗わなければならず、中学1年生の私は、深夜2時まで洗濯をしていました。
先輩のマッサージケアをすることもありました。
睡眠時間が足りず、授業中は寝るしかない。
中学入学当時、成績は上位20%ほどでした。
それが、卒業する頃には下から10番目。
それくらいまで成績が下がっていました。
そんな毎日の中で、自分の楽しみが何だったのか。
今振り返ると、おそらく、寮で支給される食事のあとに食べるお菓子だったのだと思います。
甘いものが大好きだった、小さな頃の自分。
ケーキ屋さんになりたいと思っていた自分。
その頃の夢は、いつしか、日々の忙しさの中に埋もれていきました。
走ることしかできなかった自分が、勉強で一番になった。
中学校を卒業する頃、私は高校進学について考えるようになりました。
中学校までは義務教育です。
でも、高校に進学すれば、留年することもある。
自分の成績で、本当に高校に行けるのだろうか。
それが、当時の私にとって恐怖だったように思います。
先輩や同級生、後輩たちは、陸上部の強い高校へ推薦で進学していきました。
私自身にも、お誘いの言葉はありました。
けれども、もう陸上を頑張るために、自分の勉強をおろそかにするのは嫌でした。
好きなことだけをやりたい。
そう考えた私が進学したのは、大分県にある、調理師科のある高校でした。
厳しい部活動から解放され、大好きな料理と向き合う日々。
そこで私は、思いがけない経験をします。
テストの点数が、いつも100点。
クラスで一番の成績を取るようになったのです。
人にとって大切なのは、たぶん、自信なんだと思います。
今まで走ることしかできなかった。
勉強もできなかった。
そんな自分が、いつも100点を取るようになりました。
すると、多くの友達が聞いてくれるようになりました。
「どんなふうに勉強しているの?」
自分が誰かに頼られる。
自分が誰かの役に立てる。
そんなことが嬉しかったのを覚えています。
そして、あれほど悩んでいた吃音も、いつの間にか治ってしまいました。
自分に自信を持つこと。
誰かに必要とされること。
自分の得意なことで、人の役に立てること。
その経験が、私を少しずつ変えてくれたのだと思います。
この吃音を克服した経験についても、いつか、もう少し詳しくお伝えする機会を設けたいと思っています。
調理師学校に入った、本当の理由。
調理師科では、1年生で和食、2年生で中華、3年生で洋食を学びました。
私はいつもクラスで一番の成績を取り、秀才と呼ばれるような形で卒業しました。
けれども、そんな私にも、どうしてもできないことがありました。
それが、スポンジケーキを焼くことでした。
そもそも、私が調理師学校に進学した理由は、たぶん、これだったのだと思います。
調理師になれば、最高においしいスポンジケーキを焼けるようになる。
そう思っていたのです。
子どもの頃から、何度も失敗してきたスポンジケーキ。
いろいろなレシピを試しても、うまく焼けなかったスポンジケーキ。
でも、調理師になれば、きっと作れるようになる。
そんな期待を胸に、料理を学びました。
学校の授業でも、何度もスポンジケーキを焼く機会がありました。
先生が焼いたケーキ。
自分が焼いたケーキ。
それでも、なぜか納得できませんでした。
おいしくない。
自分が思い描いているものとは違う。
一体、自分は何を目指しているんだろう。
自分が本当に作りたいケーキは、どんなケーキなんだろう。
ケーキ屋さんで体験をしたり、アルバイトをしたりしたこともありました。
それでも、自分がおいしいと思えるケーキには、なかなか出会えませんでした。
二度目のスポンジケーキとの挫折でした。
周りから見れば、十分においしいケーキだったのかもしれません。
でも、自分の中には、どうしても譲れない何かがあったのだと思います。
ふわふわで、口の中でほどけるようなスポンジ。
自分が子どもの頃に憧れた、あのケーキ。
それを作りたい。
ただ、それだけだったのです。
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そして、今。
ここまで振り返ってみると、私はずっと、同じことを繰り返していたのかもしれません。
子どもの頃は、毎日ケーキが食べたくて、ケーキ屋さんになりたいと思いました。
料理を作れば、家族や親戚が喜んでくれました。
だから、もっとおいしいものを作りたいと思いました。
スポンジケーキがうまく焼けなければ、何度も挑戦しました。
できないことがあると、どうしてもできるようになりたかった。
自分が好きなものを、自分の手で作りたかった。
そして、それを誰かに喜んでもらいたかった。
そんな気持ちは、今も変わっていないように思います。
私は今、阿蘇で生まれ育った農家として、料理に携わってきた人間として、そして、人の身体と心を癒すアロマセラピストとして、新しい場所を作ろうとしています。
その名前は、「異世界リゾート」。
農業、食、香り、自然、そして癒し。
地域にあるものを組み合わせながら、日常から少し離れて、忘れていた自分に戻れるような場所を作りたい。
ただ泊まるだけではなく、その土地の魅力を五感で感じてもらいたい。
そんなことを考えています。
でも、ふと思うのです。
この構想は、一体いつ始まったのだろう。
大手リゾートホテルで働いたときでしょうか。
阿蘇の自然の素晴らしさに気づいたときでしょうか。
それとも、農家として生まれ育った自分が、地域の魅力を誰かに伝えたいと思ったときでしょうか。
もしかすると、もっとずっと前から始まっていたのかもしれません。
小学校2年生の私が描いた、ケーキ屋さんの絵。
ショーケースに並ぶケーキと、ニコニコ笑う自分。
あの頃の私は、毎日ケーキが食べられることを夢見ていました。
今の私は、自分が大切に思う場所や時間を、誰かに届けたいと思っています。
形は変わりました。
けれども、自分が好きなものを、自分の手で作り、誰かに喜んでもらいたい。
その気持ちは、あの頃から何も変わっていないのかもしれません。
異世界リゾートの構想は、一体いつ始まったのか。
もしかすると、その答えは、まだケーキ屋さんに憧れていた、小学2年生の自分の中にあるのかもしれません。
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年間200万円と50人の部員!! 農家を継ぐために入った農大で、夢へのきっかけを手に入れた18歳の話。農家レストランを夢見た少年が、農業大学校で見つけた思いがけない可能性。
へ
つづく