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『古文余師 後集』54 後出師表(諸葛孔明)

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    『古文後集餘師』第4冊11-16丁(12-17コマ)

    〇後出師表(こうすゐしのへう)

    此の表は、中国魏の軍兵(ぐんべう)は呉を破らんとて攻め下りたれば、関門の中に人少なく、ことに曹休が負けたれば、猶々勢(せい)弱く、今こそ中国を伐(うつ)時也と思ひ定めたるより、此の事を書きて天子へ上(たてまつ)ると也。◯此の一篇に孔明が述ぶるこころは、當世天下変化の勢ひ定めがたく、軍門の戦ひ勝ちとおもへば負け、又た負けとおもへば勝つ。彼此(かれこれ)禪(ゆづり)かはるによって、惟(これ)臣(しん)として事(つか)ふる身は忠義を第一にして、身の為に料(はか)ることを忘れ、國家を早く興立(こうりう)することを肝要に志(こころざ)し、私(わたくし)の家を忘れ、命の危きをも先立て、能く覚悟して自身を富貴安楽せんと志(こころざ)すことを推し除き、苟且(かりそめ)にも偽はりて忠士の名を偸(ぬす)むたぐひをいましめ説く也。これは孔明が忠臣の實より吐露(はきいだし)たる文章なれば、文文句々よく連属したる名文なりとぞ。

    諸葛孔明

    【第一段】先帝慮漢賊不兩立 王業不偏安 故託臣以討賊也

    先帝、漢と賊と兩立せ不(ず)して王業の不偏(ひとへ)に安(やす)らか不(ざる)ことを慮(おもん)はかりたまへり。故(かるが)ゆへに臣に託するに賊を討(うたん)ことを以(もつて)せり。

    天に兩日(ふたつのひ)なきごとく、天子は一人なるべきに、後漢の献帝を倒し魏の曹操、位(くらい)を奪いしゆへ、四海に天子二人となりては四海危うし。後漢の王者の事業安らかに行ふことを不遂(とげざる)ことを、先帝審(つまびら)かに憂慮なされ、某(それがし)にはやく魏の賊を追討する大任を附属なされしとなり。

    以先帝之明 量臣之才故 知臣伐賊 才弱敵彊也 然不伐賊 王業亦亡 惟坐而待亡 孰與伐之 是故託臣而弗疑也

    先帝之明を以(もつて)、臣之(が)才を量(はかり)故(かるが)ゆへに臣が賊を伐(うたん)ことを知(しれ)ども、才弱(よはく)敵彊(こはし)。然(しかれ)ども賊を伐不(うたずん)ば王業亦(また)亡(ほろび)なん。惟(ただ)坐而(ゐながらにて)亡(もう)を待(まつ)より、之を伐(うつ)に孰與(いづれ)。是故(このゆへ)に臣に託して疑ひ給はず。

    先帝の御目利きに預かり、某(それがし)が才能を量りたまひ、孔明こそ逆賊を滅亡するもの也と辱(かたじ)けなき尊慮を被(かぶり)たれども、私(わたくし)を省みれば、中々懦弱なることにて強敵を討つには不足(たらざる)もの也。されども先帝の思し召しは、迚も強敵を亡(ほろぼ)すこと不契(かなふまじ)とてすておかば、漢家の王業もついに絶亡(たえほろび)んと辨(わきまへ)しるものは孔明なるべしと察し給ひてや。此のことを明察し、此の事に進む志ざしには油断なきものと疑ひ給ふことは、少しもあらざるがゆへ也といふ。

    【二段】臣受命之日 寢不安席 食不甘味 思惟北征 宜先入南 故五月渡瀘 深入不毛 幷日而食 臣非不自惜也 顧王業不可得偏安於蜀都故 冒危難以奉先帝之遺意

    臣、命を受(うけ)し之(の)日より、寢(いぬれ)ども席を安んぜ不(ず)、食(くらへ)ども味(あじ)はひを甘(あまん)ぜ(ず)。北征せんことを思(おもひ)惟(おもふ)に、宜(よろし)く先(まづ)南に入(いる)宜(べし)。故(かるが)ゆへに五月(ごげつ)瀘(ろ)を渡(わたり)て深(ふかく)不毛に入(いる)。日を幷(あはせ)て食(くらふ)。臣、自ら惜(おしま)不(ざる)に非(あらず)。王業の偏(ひとへ)に蜀都(しよくと)に安(やすき)ことを得可(うべ)から不(ざる)ことを顧故(おもんはかるが)ゆへに、危難を冒して以て先帝之遺意を奉ず。

    臣某(それがし)、先帝の重き遺勅を受けたる日より今に至るまで、晝夜透間(すきま)なく早(はや)討たんと志すによって、寢(ねる)も席を安んぜず、食(しょく)をくらへども其の味の甘きも不覚(おぼへず)。ひたすら北方に進み征伐することに思惟(しあん)する間(ま)に、先づ我が君の都する近邊の乱を靖(しづ)め根を深く蔕(ほぞ)を固くせんために、夏の暑熱も不厭(いとはず)五月に瀘水を越へ渡り、艸木も不生(はへぬ)南方不毛の地まで平らげ、軍(いくさ)に心を厲(はげ)ますゆへ、光陰を費やすことを恐れ兩日分(ふつかぶん)を一度に并(ならべ)食(くらへ)り。是れ自ら身を不愛(あいせず)不惜(おしまず)にはあらねど些(すこし)も油断せまじきため也。もし蜀一方に安穏なる求めを喪はんかと氣遣ひなるゆへ、危うき艱難を觸れ冒して、兎角(とかく)先帝遺勅の本意を奉承(ほうせう)し遂げんと誓ふがゆへとなり。

    而議者謂爲非計

    而(しかれ)ども議者謂(いへら)く、計(はかり)ごとに非(あらず)と爲(す)。

    某(それがし)が魏を急に攻め伐たんとするを群臣評議するに、小勢(せうせい)を進めて大敵にむかふは危うしといふ。◯議者とは是非を評論する役人也。

    【三段】今賊適疲於西 又務於東 兵法乘勞 此進趨之時也 謹陳其事如左

    今、賊適(たまたま)西に疲(つかれ)、又東に務(つとむ)。兵法は勞に乘(のつ)て此(ここ)進趨(すすみはしる)之時也。謹(つつしん)で其事を陳(のぶる)こと左の如(ごとし)。

    今、討(うっ)て出(いで)んとするを宜(よろし)といふ人無けれど、賊は西に疲れ利を失ひたる時なればなり。其のゆへは魏兵、呉を破らんとせしが大に敗軍したれば、魏に力を失へる時ゆへ、魏の運氣つたなき時節なれば、敵の疲労に乗りて攻めるを利とすれば、今こそ中国に進趍(すすみはす)べき究竟(くきゃう)の時に當たるゆへ、某(それがし)が志ざしを傾け、兵を出(いだ)し宜しと言うことを陳述(つらねのぶ)ること左(さ)の如し。

    【四段】高帝明並日月 謀臣淵深 然涉險被創 危然後安 今陛下未及高帝 謀臣不如良 平 而欲以長策取勝 坐定天下 此臣之未解一也

    高帝は明、日月(じつげつ)に並(ならべ)、謀臣淵の深(ふかき)がごとし。然(しかれ)ども險を涉(わた)り創(きず)を被(かぶり)て、危(あやふく)然(しかふ)して後に安(やす)し。今、陛下も未(いまだ)高帝に及未(およばず)して、謀臣良平に如不(しかず)。長策を以(もつて)勝を取(とつ)て、坐(ゐなが)ら天下を定を(さだめ)んと欲す。此(これ)臣之(が)未(いまだ)解(さと)ら未(ざる)一(いつ)也。

    前漢の高祖は其の智、明白なることは日月に比べて先を争ひ、其の下に属する智謀の臣(しん)は、思慮淵の深きがごとく、君臣相遇ふてだにも。高祖は險難を經涉(へわた)り、身は創(きず)を被(かふむ)り、危うきを過ぎて後、安逸を得たり。今、陛下の明智は未だ高帝には不及(およばず)。群臣も張良、陳平に似たるものもなし。是(この)故に不戦(たたかはず)して計策を以て大敵に勝つことを求め、安坐して天下を掌(たなごころ)に握り定めんと願ふとは、某(それがし)が先づ會得しがたき第一箇條なり。

    【五段】劉繇 王朗各據州郡 論安言計 動引聖人 羣疑滿腹 衆難塞胸 今歲不戰 明年不征 使孫策坐大 遂幷江東 此臣之未解二也

    劉繇(りうよう)王朗(わうろう)各(おのおの)州郡に據(より)安からんことを論ず。計(はかり)ごとを言(いふ)に、動(やや)すれば聖人を引く。羣疑(ぐんぎ)腹に滿(みち)衆難(しゆだん)胸に塞(ふたが)り、今歲(こんせい)戰(たたか)は不(ずん)ば明年(みやうねん)征せ不(ず)。孫策をして坐(ゐ)ながら大(おほい)にして遂に江東を幷(あはせ)使(しめ)ん。此(これ)臣之(が)未(いまだ)解(げ)せ未(ざる)二(ふたつ)也。

    劉繇、王朗の二人は三国争乱の時、天晴覇者の業を興すべしと我も我もと勢(せい)を起こしたれども、遂におのおの保つところの州郡をも孫策に奪はれ、其の身も皆な孫策に従ひたるにあらずや。此れを聞き知りながらも干戈を動かさずして此の小国(せうこく)を安んずることを議論し、又聖人の語を引き、仁義を先とすれば民(たみ)和(くわ)し不招(まねかず)とも国を得(う)ると古例(これい)を挙ぐるゆへ、誠(げに)も然(しか)らんかと群臣の疑惑するところ腹に充ち、かへって衆多(しゅた)の難義迫り起こるによって其の患(うれへ)は胸に塞(ふたが)り、かかることを不弁(わきまへず)して坐思案(ゐながらのしあん)に日月を費やし、今歲(ことし)も不戰(たたかはず)来年も不征(たたかはず)とならば、魏のみならず呉も熾んにして、蜀の王業は如何(いかん)して復興(かへしおこ)せんや。不戰(たたかはず)して安逸を待つこと、會得せざる第二箇條なり。

    【六段】曹操智計殊絶於人 其用兵也 髣髴孫、呉 然困於南陽

    曹操は智計殊に人に絶(すぐれ)たり。其(その)兵を用(もちゆ)ること、孫呉に髣髴たり。然(しかれ)ども南陽に困ず。

    漢の帝位を掠(かすめ)たる曹操が智謀は別して天下の人に絶(すぐ)れ、其(その)兵士を用(もちゆ)ることは上世(じゃうせ)の孫武、呉起にも劣らぬ名将也しとなり。然(しかれ)ども雅(さすが)に剛なる曹操も、南方の軍(いくさ)には流れ矢に中(あた)り、大に困り敗れ乱れたることもありし。

    險於烏巢 危於祁連 偪於黎陽 幾敗北山

    烏巢(うさう)に險(はげし)く祁連(きれん)に危く黎陽(れいやう)に偪(せま)り、幾(ほとん)ど北山に敗(やぶれ)、

    曹操、袁紹と戰ふに勝ちがたく、兵も粮(かて)も盡きたるゆへ、敗軍して歸陣(かいじん)せんとする時、袁紹が兵粮(へうろう)萬餘の多きを烏巢といふ所に蓄へたるを聞きて、兵をやりて粮(かて)を焼き亡ぼしたるゆへ、袁紹が勢、敗北して操は危うきを免(のがれ)たり。又、北地を征する時、祁連といふ所にて危うきこと有り。其の外、黎陽の軍(いくさ)に偪(せま)り、又北山にて趙雲に敗られ、操が兵、大に崩れ、此の時敗滅に近かりしとなり。

    殆死潼關

    殆ど潼關(どうくわん)に死なんとす。

    潼關に陣を張りたるとき、操を攻むること急なれど意(い)剛(こわき)操なれば騒がざるを、許褚といふ臣、引き立て舟に進めたるにて危うきを遁れたり。此の時、許褚といふ臣なくば、操が命は殆(あやうき)に迫りたると也。

    然後僞定一時爾 況臣才弱 而欲以不危而定之 此臣之未解三也

    然(しかふ)して後(のち)、一時に僞定(ぎてい)する爾(のみ)。況や臣才弱(よはく)して、危(あやう)から不(ざる)を以(もつて)之を定(さだめ)んと欲(ほつす)。此(これ)臣が未(いまだ)解(げ)せ未(ざる)三(みつ)也。

    孔明は漢の正統(しゃうとう)の蜀に事(つかへ)るゆへ、魏を憎みて僞定(ぎじゃう)と云ふ。◯曹操は孫武、呉起にも劣らぬ智謀を具(そな)へたれど、右に云ふごとく色々の難にあひ命も既に亡(うしな)はんとせしほどのことに嬰(かかり)、浸(やうやく)のがれて暫く天下を平定(へいぢゃう)するおもひを懷(いだけ)るとなり。況して某(それがし)ごときもの、危うきを經ずして天下を平定せんと望むは、某の心に會得せざる第三箇條なり。

    【七段】曹操五攻昌霸不下 四越巢湖不成 任用李服而李服圖之 委任夏侯而夏侯敗亡

    曹操五たび昌霸(しゃうは)を攻(せむ)れども下不(くださず)。四たび巢湖を越(こへ)しかど成不(ならず)。李服(りふく)に任用(じんよう)すれども而(しか)も李服之(これ)圖(はから)る、夏侯(かこう)に委任(いじん)すれども而(しか)も夏侯敗亡しぬ。

    操、昌霸といふ地を五度まで攻めたれど勝つことを下遂(とげず)。又四たびまで巢湖といふ湖水(みづうみ)へ前(すすみ)合肥といふ地を奪はんと兵戦をすすむれど、呉の孫権が兵に勝つことを得ずして気力を費やしたり。又李服といふものに何事(なにごと)も任用(うちまかせ)たるに案に相違して野心を挟み冦(あだ)を図りたり。又操が従弟婿(いとこむこ)に才器勝れたる夏侯といふ人に漢中の留守させたるが、不意に敗亡して其の地まで奪はれたるとなり。

    先帝每稱操爲能 猶有此失 況臣駑下 何能必勝 此臣之未解四也

    先帝每に操を稱じて能ありと爲(し)たまふさへ、猶(なを)此(この)失(しつ)有り。況や臣、駑下(どか)にして何(なんぞ)能(よく)必ず勝(かたん)。此(これ)臣之(が)未(いまだ)解(げ)せ未(ざる)四(よつ)也。

    先帝は曹操を智謀才能ありて兵を能く用ゆる人ぞと稱誉(しゃうたん)なされし御目利きの人なれど、前段にいふ通りの不思寄(おもひよらざる)過失を重ねたり。況や某(それがし)ごとき駑馬らしき身にて、坐(ゐ)ながら敵に勝つことを遂げんや。よって討って出づるを不宜(よからず)とするはいふは、某が心に未(いまだ)解(げ)せ未(ざる)の四箇條なり。

    【八段】自臣到漢中 中間朞年耳 然喪趙雲 陽群 馬玉 閻芝 丁立 白壽 劉郃 鄧銅等 及曲長屯將七十餘人 突將無前 賨叟 青羌 散騎 武騎一千餘人

    臣、漢中に到(いたる)自(より)中間(ちうかん)朞年(きねん)耳(のみ)。然(しかれ)ども趙雲(てううん)陽群(ようぐん)馬玉(ばぎよく)閻芝(ゑんし)丁立(ていりう)白壽(はくしう)劉郃(りうかふ)鄧銅(とうとう)等、及(および)曲長(きよくてう)屯將(とんしやう)七十餘人(よじん)を喪ふ。突將(とつしやう)前(すすむ)こと無(なく)して、賨叟(そうそう)青羌(せいきやう)散騎(さんぎ)武騎一千餘人。

    (◯曲長とは組がしらのことにて弓かしらはたかしらのるい也。◯屯將とは先陣後陣と分かつ大将のことなり。◯突將といふは大軍の中へもはせ行く勇士のさかんなるをいふ。◯賨叟とは孔明が以前南夷を征伐したるとき其の中に才あるものをしたがへ老となるまで今に用ひきたるをいふ。◯青羌といふは降参して從ふものをいふなり。◯散騎武騎といふは騎馬のくみの号なり。)
    某(それがし)、中国を攻めんと志ざし、中国の客体を窺はんため、漢中に軍を張るより一ケ年なるに、頼みに思ふ趙雲をはじめ鄧銅にいたり八人の名将死亡せり。是のみならず、曲長屯將に定めたる名士七十餘人を討ち死にさせたるゆへ、日比(ひごろ)壮んなる突將も怖れて不前(すすまず)。又彼の南の夷(ゑびす)を従へ用ひたるをはじめとし、散騎武騎まで千餘人を死なせたるとなり。

    此皆數十年之内所糾合四方之精鋭 非一州之所有 若復數年 則損三分之二也 當何以圖敵 此臣之未解五也

    此(これ)皆(みな)數十年之内に糾合する所の四方之精鋭、一州之有する所に非(あらず)。若(もし)復(また)數年ならば則ち三分之二(じ)損せん。當に何を以て敵を圖當(はかるべき)。此(これ)臣之(が)未(いまだ)解(げ)せ未(ざる)五(いつつ)也。

    將士(めいしゃう)より歩卒(あしがる)にいたるまで數十年來を經て練り集め勝れたる精鋭なりしが、僅か一年の間に、或ひは死亡し又は討ち死にして如此(かくのごとし)。又今より徒(いたづら)に數年を過ごすとならば、残る兵も三分の二は損亡せんこと決せり。然れば何を力に頼みて敵を滅ぼすことを謀らんや。今戦はずしてかなはねど、をのをのは急に戦ふことは不宜(よろしからず)といへるは、某(それがし)が心に未(いまだ)會得せ未(ざる)五ケ條なりと。

    【九段】今民窮兵疲 而事不可息 事不可息 則住與行勞費正等 而不及蚤圖之 欲以一州之地與賊持久 此臣之未解六也

    今、民窮(きはま)り兵疲(つかれ)たり。而(しかれ)ども事(こと)息(やむ)可から不(ず)。事(こと)息(やむ)可から不則(ざるときは)、住(とどま)らんと行與(ゆかんと)、勞費正(まさに)等(ひとし)く、而(しかる)に蚤(はやく)之を圖(はかる)に及不(およばず)。一州之地を以て賊與(ぞくと)久(ひさし)きを持せんと欲す。此(これ)臣之(が)未(いまだ)解(げ)せ未(ざる)六(むつ)也。

    今、此の蜀の民は困窮して兵士は久しく軍門に疲(つかれ)たれども、魏を攻め伐(う)つ軍(いくさ)は不可息(やむべからず)。とても其の事不可息(やむべからず)に於ては、国に留まり城を守るにも苦労あり。攻め行きて伐つにも干戈の苦労は不免(まぬがれず)。しかれば何(いづれ)にても兵粮兵器の費(つい)へるところは同じことなれば、二つならべてみれば魏を伐つことまされり。然(しかる)に此のことを料(はから)ずして僅かに蜀の一州を保ちたるを便りにして、大賊の魏と睨み合ひ、久しく亡ぼすことを延引(のば)し、此の国を長持遂(ながくたもちとげん)と思へるは、某(それがし)が心に會得せ未(ざる)第六ケ條なり。此の文にいたるまで六ケの条目を挙げ、戦ふべきの道理を明かせり。

    【十段】夫難平者 事也 昔先帝敗軍於楚 當此時 曹操拊手 謂天下已定

    夫(それ)平(たいら)げ難(がたき)者は事(こと)也。昔、先帝軍を楚に敗(やぶ)らる。此時に當(あたつ)て曹操、手を拊(うつ)て天下已(すで)に定(さだま)れりと謂(おも)へり。

    夫(それ)平均し難(がたき)證拠は、以前先帝の時、曹操大軍を引卒し南方を攻め来たると聞く。荊州の太守劉琮(りうさう)怖れて操に降参せんとする頃、先帝はそれを知らず樊(はん)に陣を取りたるが、操は江陵に兵粮を貯へたるを先帝に奪はれんとて大軍を急にすすめ追い掃(はら)ふ。大軍に敵しがたく先帝は孔明、張飛(てうひ)僅か數十騎にて迯(にげ)去り給ふ。曹操大に悦び手を拊(うっ)て、天下は我が物に一統したりとおもへりとなり。

    【十一段】然後先帝東連呉越 西取巴蜀

    然(しかふ)して後、先帝東のかた呉越(ごゑつ)を連(つらね)、西のかた巴蜀(はしよく)を取(とれ)り。

    先帝當陽の難義に迫り夏口まで迯(のが)れて呉に好(よしみ)を結び、復た勢を起こしたまへると也。蜀の劉璋(りうしゃう)は先帝に降(くだ)るゆへ、建安十九年より先帝益州の太守と成り、蜀を領し給ふ。

    擧兵北征 夏侯授首 此操之失計而漢事將成也

    兵を擧げて北征す。夏侯首を授(さづく)。此(これ)操之(が)失計にして漢事將(まさ)に成(なら)んと將(す)。

    兵を擧げて北征す。夏侯首を授(さづく)。此(これ)操之(が)失計にして漢事將(まさ)に成(なら)んと將(す)。

    【十二段】然後呉更違盟 關羽毀敗 秭歸蹉跌

    然(しかふ)して後(のち)、呉、更に盟に違(たがふ)て關羽毀敗しぬ。秭歸(しき)蹉跌すとなり。

    呉の孫権、好(よしみ)を違へ魏に与(くみ)するのみならず、關羽を殺し、剰さへ降参したる劉璋を呉に誘(いざな)はれ、そのうへ蜀の領分の秭歸といふ地を奪ひ、大いに敗悶し給へりとなり。

    曹丕稱帝 凡事如是 難可逆見

    曹丕(そうひ)帝と稱じ、凡(およそ)事(こと)是(かく)の如(ごとく)んば、逆(あらか)じめ見可(みるべき)こと難(かた)し。

    蜀より魏を大敵に睨(にらみ)、呉には怨みを晴らさんとし給へる中(うち)に、魏、曹丕が位に即(つき)て帝号を稱(となへ)たり。凡(すべ)て者の変化轉変は前(まへ)にいふごとく前(さき)には知り定めがたく、料(はかり)見ることは遂げがたしと也。

    臣鞠躬盡瘁 死而後已 至於成敗利鈍 非臣之明所能逆覩也

    臣、鞠躬(きくきう)して盡(ことごと)く瘁(かじけ)、死して後(のち)已(やまん)。成敗利鈍に至ては、臣之(が)明かに能(よく)逆(あらか)じめ覩(みる)所に非(あらず)。

    臣、孔明、年月(としつき)、漢の代(よ)興復のことに身心を罷(つから)かし、腰も鞠躬(かがまり)精氣も衰へたれども、先帝の厚恩を報じとげ、漢賊を滅ぼさんと誓ふこころは生命(いきながらふ)間は怠ることなし。成不成(なるならざる)軍(いくさ)の利鈍は、明白には前より見徹(みとを)すべきことにはあらず。

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