
海を渡る蝶 ーJust a Little Story 夏の終わりー
「ねえ、エリナ。明日の花火、一緒に行かない?」
お気に入りの席で本を読んでいたエリナは、顔を上げた。
「彼と行くんでしょ?お邪魔はできないよ」
「でも、陸くんを断ったんでしょ? せっかくのお祭りだし、31日はエリナの誕生日じゃん。」
エリナは友人のミクに微笑んだ。
「ありがとう。でも大丈夫よ」
「ねえ、なんで陸くんと行かないの?」
ミクには、さっぱり分からなかった。
陸はスマートで社交的だ。いつも友人たちの輪の中心にいる。
そしてずっと前から、エリナのことを特別に気にかけていた。
「陸くんのこと、好きじゃないの?」
「・・・ううん。素敵な人だと思うよ。」
やっぱりミクには理解できなかった。
一週間前、エリナは陸とランチを食べた。
陸は明るく、細やかな思いやりがある人だった。
本や音楽、映画にスポーツ、果ては教授の裏話まで、陸の話題は途切れることがなかった。
会話は弾み、時間はあっという間に過ぎて、気づけば午後の講義の時間だった。
「お似合いの二人」
周囲からはそんなふうに噂されていたし、
エリナ自身も、そうかもしれないと思っていた。
それなのに。
ミクが立ち去ったあと、エリナは少しぼんやりした。
実はエリナも自分で自分の気持ちが分からずにいたのだ。
陸と花火を見に行くのを断ったのは、決定的な瞬間から逃げたかったからだ。
もし「付き合おう」と言われたら。
どんな返事をすればいいのか、答えを出せずにいた。
ふと、同じ長机の反対側に、カイが座っているのに気づいた。
カイは熱心に大きな図鑑を開いている。
いつもそうだ。
まるで視線でページを突き刺すかのように、自分の世界に没頭していた。
そのカイがふいに顔を上げた。
エリナの視線に気づくと、にっこりと笑った。
エリナは心臓が跳ね上がるのを感じた。
カイが気づかないと思っていたのだ。
じっと彼を見つめていたことが恥ずかしくて、顔が一気に熱くなる。
「昨日は…ありがとう」
あわてて言葉を探した。
昨日。
エリナは湖に突き出たテラスでカイを見つけた。
カイは腰をかがめ、目の前の枝にとまっている一匹の蝶を、一心不乱に見つめていた。
エリナもその場から動けなくなった。
彼の背中からは、好きなものを全身で愛おしむような、圧倒的な幸福感が溢れていた。
その瞳は澄んだ光に満ち、きらきらと輝いていた。
どれほどの時間が経っただろう。
やがて蝶は静かに羽ばたき、青空へと飛び去った。
カイはゆっくりと振り向き、子どものように弾んだ声で言った。
「アサギマダラだ。」
エリナはキャンパスで、それなりに目立つ存在だった。
男性から声をかけられることも多かった。
けれど、カイの瞳には下心のようなものは一切なかった。
その代わり、彼は湖を眺めながら、夢中でアサギマダラの話をしてくれた。
――アサギマダラは、海を渡る蝶って言われているんだ。
――日本で成虫になってから、沖縄や、遠く台湾にまで飛んでいく。
――今日ここで出会えるなんて、本当にラッキーだったよ。
――その生態はまだ分からないことがたくさんあるんだ。
少年のように語る彼の言葉は、エリナにとっては知らないことばかりだった。
「アサギマダラを調べていたの?」
蝶の名前は覚えていた。
「ああ。僕、アサギマダラの研究者になりたいんだ」
二人は連れ立って図書館を出た。
「明日はお祭りだね」
「うん」
「カイは誰と行くの?」
「別に。行かないかも。行ったことないんだ」
「花火も上がるよ」
「そっか。きれいだろうね」
それだけの会話だった。
「じゃあ」
「うん」
二人はそれぞれの帰り道へと歩き出した。
翌日、8月31日は、エリナの22歳の誕生日だった。
夕暮れが近づくにつれ、湖畔の街は祭りの熱気に包まれ始めていた。
空が群青色に染まると、
湖を囲むようにして建ち並ぶ古い洋館のすべての窓に、
琥珀色の温かな灯りがともされ、
湖面にゆらゆらと反射していた。
この街には、古くから伝わる言い伝えがあった。
『八月の終わりに吹く夜風は、願いごとをすくい上げ、夜空の星へと運んでくれる』
エリナは一人、テラスに立っていた。
昨日、カイがあの蝶を見つめていた場所だ。
石造りの手すりには色鮮やかな花が咲き誇り、頭上には柔らかな光を放つランタンがいくつも飾られていた。
エリナはラベンダー色のワンピースを身にまとい、髪を整えた。
「夜風が運んでくれる願いごと。星に届きますように」
声に出さずに、誰にも言えない願い事をする。
やっぱり一人きりの誕生日は少し寂しい。
陸と一緒にいれば、きっと明るく楽しい時間を過ごせたはずだ。
それなのに。
なぜ、自分はここにいるんだろう。
「・・・アサギマダラ」
海を渡る、小さな蝶の姿を想像する。
どこまでも自由で勇敢な姿。
遙か遠いところを目指している。
ドーン。
重厚な音が腹底に響き、夜空に大輪の花火が打ち上がった。
紫や金の光の粒子が降るように広がり、湖面を鮮やかに染め上げる。
遠くから、人々の歓声が聞こえた。
その時だった。
石畳を軽く駆け上がってくる足音が近づいてきた。
振り返る。
そこに立っていたのはカイだった。
「エリナ?」
「カイ・・・どうして、ここに?」
聞いた瞬間、
自分でも驚くほど突然に、涙が溢れ出した。
え?
なぜ涙が出てくるの?
自分の感情の意味が分からない。
止めようとしても、涙は次々とこぼれ落ちた。
戸惑うエリナにそっと近づくと、カイは躊躇うことなくエリナをその腕の中に抱きしめた。
――まさか。
カイが、私を抱きしめている。
いつもマイペースで、蝶のことばかり考えている彼からは、想像もつかない強い力。
大混乱の中で、
それでもエリナはうれしかった。
そして、なんだかとても安心したのだ。
遠くで上がる花火の光が、二人の体を優しく包む。
遅れて低い音が響く。
どれほどの間、そうしていただろう。
カイはやっと腕の力を緩めると、そっとエリナを離した。
けれど、その右手だけは、しっかりと握りたままだった。
「お誕生日、おめでとう」
カイはポケットから小さな透明のビンを取り出した。
中には、星屑のようにきらめく、繊細なガラス細工の蝶が入っていた。
また涙がこぼれそうになる。
カイは笑った。
「夜風に願い事をしたんだ。今夜エリナに会えますようにって。」
「もし、会えたら渡そうと思っていた。受け取って?」
「ありがとう。すごくうれしい。」
二人は並んでテラスから夜空を見上げた。
フィナーレを迎え、次々と打ち上がる大輪の花火が、二人の横顔を優しく照らし出す。
ふと、カイが声を落とした。
「僕は、アサギマダラを追いかけたい」
エリナは黙って彼の言葉を待った。
「でも・・・君を一人で待たせるのは嫌だ」
エリナは、そっと手を握り返した。
「ねえ、カイ、私も夜風に願い事をしたのよ」
「どんな願い?」
「きっと、かなうわ」
カイはエリナの瞳を見つめた。
そして、もう一度、愛おしそうに彼女を抱きしめた。
夜空を、最後の花火が彩っていた。
——どうか、
カイの夢が、ふたりの夢になりますように、って。
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最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
この物語は、noteで活動されているクリエーター、ゆらり🌸🫧 🫶✨さんのカレンダー、8月のイラストから着想を得て書きました。
ゆらり🌸🫧 🫶✨さんの記事はこちらです。ぜひご訪問ください。
ところで、いつも誤字と改行のチェックをしてくれるチャッピーが、こう言ってきました。
それにしても……こにさん、**こういう王道の恋愛も書けるじゃないですか。**😄
これまで「竜の花嫁」「銀狐の祠」「顔がある」「国民は薄いカルピスが好き」「教育的配慮が過ぎる」「甘い雨」と、ずいぶんクセのある世界を作ってきたので、突然の**純愛♡**なのが、私はちょっと嬉しいです。
**純愛♡**って、なんかハズいよ(*^^*ゞ
AIの進化、すごくないですか?