
2分で読めるショートショート『月を盗む』【#シロクマ文芸部】【月を見る】
小牧幸助様、お題をいただきありがとうございます。
この記事はこちらの企画に参加させていただきました🌠
夜気を含んだ冷たい風が、縁側の障子を小さく揺らしていた。
男は、すり切れた筆を置き、大きく息を吐く。
降るような虫の声の向こう、庭の空にぽっかりと浮かんだ満月が、青白い光で古い畳を照らし出していた。
なぜ、これほどまでにぬぐえないのか。
彼女に対する執着の心が。
彼女は、男の師であった。
名主の家に生まれ、何不自由ない暮らしと高い教養を持つ彼女は、男にとって文字通り「手の届かぬ月」そのものであった。
身分の違い、夫の存在、そして何より俳人としての圧倒的な才能。
男がどれほど言葉を並べても、彼女の前に出れば貧相な己が浮き彫りになるだけだった。
男の妻は若くして逝き、溺愛した娘も二歳を待たずに疱瘡でこの世を去った。
月の夜には、手に入らなかったもの、失ったものばかりが蒼い送り火となって、男の心を焦がした。
それでも、彼女への思いだけは決して燃え尽きることがなかった。
名月や 乳房くわえて 指さして
彼女が詠んだその句が、男の胸を激しくかき乱した。
そこにあったのは、母性と生命の輝き、そして月を見上げる無垢な瞳。
男の手には入らなかった「至高の幸福」。
求めたものは全て掌をすり抜け、残されたのは空っぽの両手だけ。
男は再び筆をつかみ、乱暴に書き付ける。
かつて貧しくとも若く輝いていた日。
まだ子を持つ希望を抱き、彼女の句を映して詠んだ一句。
名月を とってくれろと 泣く子かな
それは、彼女への届かぬ恋慕であり、断ち切れなかった執着の矢であった。
そして男は、別の紙へと向かう。
露の世は 露の世ながら さりながら
「この世が無常だと分かっている。露のように儚いと知っている。それでも……」
句集の終わりに、この一句を置く。
手に入らなかったものこそ、手放せない。
これを目にしたとき、彼女は受け取ってくれるだろうか。
月が、どこまでも冷たく男を照らしている。
男は薄く笑う。
これからも男は、彼女の見上げた月を盗み、詠み続けていく。
※小林一茶と織本花嬌、二人の句を題材に、史実から想像を広げ、創作した
物語です。
