
ハッピーライティングマラソンお題#68|今の自分だからこそ、もう一度読みたい本は?なぜ、あんなに泣いたのだろう。今、もう一度読みたい『野生のエルザ』
本田健さんのハッピーライティングマラソン、今回のお題は「今の自分だからこそ、もう一度読みたい本は?」だった。
最初に浮かんだのは、『星の王子さま』『くまのパディントン』『エルマーとりゅう』。なぜか子どもの頃に読んだ本ばかりだった。その中で、ひときわ強く浮かんできたのが『野生のエルザ』だった。
映画を先に観たのだと思う。アフリカの広大な風景と、ジョン・バリーの音楽。そして、大きなライオンがまるで猫のように人間になついている。羨ましかった。私もアフリカへ行って、ライオンと遊びたいと思った。もっと小さい頃に『ジャングル大帝』をみていたせいもあるのだろう。とにかく私は動物が好きな子どもだった。
その後、『野生のエルザ』を本で読んだ。小さな文庫本が勉強机の本棚に何冊も並んでいる、という遠い記憶がある。表紙には映画の場面のようなエルザの写真が使われていて、それが赤だったり、緑だったり、黄色だったり、一冊ずつ違う色で刷られていた。
今回、この記事を書くために調べてみたら、あった。1974年に文春文庫から刊行された『野生のエルザ』。私は13歳だった。続編も次々に文庫になっている。当時は一冊二百数十円ほど。中学生のお小遣いでも、一冊ずつなら買うことができた。半世紀以上たっているのに、表紙の色まで覚えていたのには少し驚いた。
そして私は、この本を読んで、ものすごく泣いた記憶がある。本のページに涙がポタポタ落ちるほど泣いた。
ところが、あんなに泣いたはずなのに、どこのシーンで泣いたのか、今となっては正確には覚えていない。多分、エルザを野生に返すところだったのではないかと思う。
いつも一緒にいた大好きな人たちが、自分を置いていく。なぜ? どうして?
エルザは何度も振り返る。
その場面だったような気がする。
私は本を読むと、その中の人になってしまう子どもだった。『ひとりぼっちの政一』という物語も忘れられない。クラスでいじめられている政一の涙が、給食のお皿にぽとぽと落ちる。今でもその場面を思い出すと泣ける。私は政一を見て泣いているのではない。政一になっているのだ。
『かわいそうなぞう』もそうだった。戦争中、動物園の象を殺さなければならなくなり、飼育員は象に餌を与えることができない。でも、そんな事情を象は知らない。
どうして今日は餌をくれないの?
餌がほしくて、何度も芸をしてみせる。
私は飼育員ではなく、象のほうになっていた。
思い出すとまた泣ける。
だから『野生のエルザ』でも、私はジョイではなく、エルザだった。
どうして? いつも一緒だったのに。どうして今日は私を置いていくの?そう思いながら、何度も何度も振り返って、そして諦めたように、ジャングルの奥深く入っていくエルザ。やがてエルザは野生の中で生きていけるようになる。そしてある日、自分の子どもたちを連れて帰ってくるのだ。その場面も覚えている。
今の私には、エルザがこんなことを言いに来たように思える。
見て。私は無事です。
子どももできました。
今は野生で、別のしあわせを手に入れたよ。
だから、もう心配しないで。
ありがとう。
さようなら…。
さようなら、なのだ。
結局人間と野生は相容れないのだから。
子どもの頃は、おそらくそんなふうには考えなかっただろう。ただ、エルザが帰ってきたことが嬉しくて、泣いたのだと思う。
中学生になる頃から、私はだんだん本より音楽に夢中になっていった。その頃デビューしたばかりのユーミンを聴くようになった。今度は歌の中の誰かになって泣いた。
大人になってからも映画やドラマではよく泣く。ところが、ふと気づいた。本を読んで泣いたのは、いつが最後だったのだろう。思い出せない。何十年もないような気がする。
歳をとって、感受性が鈍くなり、感動が薄くなったのだろうか。想像力も衰えているかもしれない。文字を読んで、その世界へすっぽり入り込み、登場人物になってしまう、子どもの頃には当たり前にできたことが、いつの間にかできなくなってしまったのか…。
今、『野生のエルザ』をもう一度読んだなら、同じところで泣くのだろうか。それとも今度は、エルザではなく、愛しているからこそ手放すジョイの方になって泣くのだろうか。あるいは、もう泣かないのだろうか。
あれから半世紀以上が過ぎた。たくさんのものを見て、たくさんの別れを知って、あの頃よりもずいぶん歳をとった。
それでもページを開いたら、アフリカの広い大地が見えるだろうか。あの音楽が聞こえてくるだろうか。そして私は、もう一度エルザになれるだろうか。
それを確かめるために、今、『野生のエルザ』をもう一度読みたい。
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