
短編小説 | 水の音
「 水難克服記念全世界同時刊行特別号外 」
十年前。人類は突然、聴力を失った。
原因は不明。
しかし翌日、さらに大きな異変が起きた。
水が消えた。
正確には、水そのものは存在しているのに、人間だけが水を知覚できなくなった。
蛇口をひねっても何も見えない。コップは空のまま重くなる。川は地面に見え、海では船や魚だけが空中に浮いた。雨も雲も見えず、洪水では何もない道路を車や人だけが流れていった。
この一連の社会的混乱は、のちに『水難』と呼ばれた。
調査の結果、水は人間が意識できないほど微弱な固有音を常に発しており、人間の脳はその音を手掛かりに、視覚や触覚などの情報を「水」として認識していたことが判明した。
聴力を失ったことで、水そのものではなく、水を認識する能力が失われたのである。
各国は直ちに水難対策を開始した。
河川、湖、海岸、用水路には柵や警告灯が設置され、スマートフォンには降雨通知や浸水警報が標準搭載された。
計測機器メーカーは急成長し、水位計、湿度計、水分センサーは一般家庭にも普及した。建設業では浸水検知設備が標準化され、農業は土壌水分センサーによる管理へ移行した。
保険会社は水害請求の急増で一時大きな損失を出したが、その後は水難対策設備の有無を保険料へ反映するようになった。
一方、水族館では水槽の水が見えないため、魚が空中を泳いでいるように見えるとして来場者が増加した。
最大の転機は、水可視化技術の実用化だった。
センサーで水の位置を検出し、眼鏡や端末上へ表示する。
川は青い帯に、雨は白い線に、海には仮想の水平線が描かれた。
やがて表示方法は国際規格として統一され、水難発生後に生まれた子どもたちは、本物の水を見たことがないまま「水は青いもの」として学ぶようになった。
そして十年後。
水難による事故件数は、発生以前の水難事故とほぼ同水準まで減少した。
人類は水を見る能力を取り戻してはいない。
それでも、雨を知り、川を渡り、海を進み、洪水から逃げられる。
水が見えないことを前提に、社会そのものを作り直したからだ。
以上の経緯を経て、
人類は水の知覚を克服したのだ。
ー
男は号外を読み終え、
興奮しながらそばにいた妻へ語りかけた。
『 へぇ、水難克服宣言か!』
『 科学の力ってスゲー!だな 』
『 ホント、おったまげよね〜 』
『 人類の叡智ってやつね 』
『 てかさ 』
『 ええ 』
『 全人類が手話でこんな気軽に話せるようになったのもスゲーわ 』
『 それな 』
ー
完