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漫画分析 | 風の谷のナウシカの原作版は難解すぎる

    👦💬

    原作版のナウシカについて話そうぜ。

    てか難しくて、
    なんのこっちゃわからんかったわ。

    ー

    🍮💬

    話そうぜ。
    原作版『風の谷のナウシカ』、普通に難しい。

    映画版の記憶で入ると、「巨神兵と王蟲の話じゃなかったんかい」から始まり、途中から宗教・国家・生命倫理・文明論が殴り合いを始める。

    宮崎駿、読者を谷に置き去りにして山脈を越えていく。

    まず超圧縮すると、原作ナウシカはこういう話だと思う。

    「汚れた世界を浄化して、きれいな人類を復活させよう」
    ↓
    ナウシカ
    「その思想、生命を設計者の都合で選別してるだけじゃね?」
    ↓
    たとえ滅びるとしても、今ここに存在する生命を肯定する。
    これが最後まで通ってる一本の背骨。

    そもそも腐海って何だったの?

    映画だと、

    人類が世界を汚染した
    ↓
    腐海が毒を吸収して世界を浄化している
    ↓
    王蟲たちはその生態系を守っている

    というところまで行く。

    原作は、さらに嫌なところまで掘る。

    実は腐海は、旧文明によって作られた
    人工的な浄化システムだった。

    つまり、

    「自然が人類の愚かさを浄化している」

    という美しい話ですらない。

    昔の人類が、自分たちが破壊した地球を再生するために、生態系そのものを設計した。

    王蟲も腐海も、その巨大な生命工学システムの一部だった。

    ここで、「自然 vs 人間」という単純な構図がぶっ壊れる。

    さらに最悪なのが「今の人類」

    旧文明は考えた。

    「地球を浄化しよう。でも浄化には長い時間がかかる。今の人間は汚染された環境じゃないと生きられない」

    そこで、汚染環境でも生存できるように人類を作り変えた。

    それがナウシカたち。

    だから世界が完全に浄化されたら……

    ナウシカたちは逆に生きられない可能性がある。

    ここ、めちゃくちゃ残酷。

    映画でナウシカが見つけた「腐海の底のきれいな世界」が、原作では希望だけじゃなくなる。

    「世界がきれいになる」

    普通ならハッピーエンドだろ。

    ところが、

    「世界がきれいになったら、お前ら死ぬぞ」

    になる。

    宮崎駿、希望らしきものを見せてから地雷を埋める。


    そして終盤に出てくるのが、
    シュワの墓所。

    ここが原作ナウシカの核心。

    旧文明の人間たちは、浄化後の世界に適応した人類や文明・文化などを保存していた。

    つまり壮大な計画としては、

    ① 汚染された世界を腐海で浄化

    ② 現人類はその期間を生き延びるための存在

    ③ 世界が浄化されたら旧文明の計画した新しい人類を復活

    ④ 文明再建

    という感じ。

    合理的なんだよ。

    むしろ、めちゃくちゃ合理的。

    「人類を救う計画」

    とすら言える。

    ところがナウシカは、これを拒絶する。

    なぜか。

    ここが一番面白い。


    ナウシカは「人類を救う」ことを選ばない

    墓所側の発想は、

    「現在の生命は不完全だから、より良い生命と世界を用意して未来へつなぐ」

    なんだよね。

    でもナウシカからすると、

    誰が「良い生命」「悪い生命」を決めたんだ?となる。

    汚染された世界に適応して生きてる人間もいる。

    腐海もいる。
    蟲もいる。
    王蟲もいる。
    粘菌もいる。

    みんなこの地獄みたいな環境の中で、
    それでも生きてる。

    それを過去の文明が、

    「君たちは暫定版です、世界がきれいになったら完成版と交代します」

    と決めている。

    ナウシカからすれば、ふざけんな。

    となる。

    だから墓所を破壊する。
    ここが映画版ナウシカとはかなり違う。

    映画版のナウシカはかなり救世主なんだよ。

    人間と自然の間に立って、調和を取り戻す。

    ところが原作終盤のナウシカはもっと危険。

    人類の未来を保証してくれる装置を、自分でぶっ壊す主人公だから。

    しかも、「代わりにこうすれば人類は助かります」という答えを持ってない。

    「じゃあ俺たち滅びるかもしれないじゃん」

    その可能性まで引き受ける。

    ここがすごい。


    だから俺は、原作ナウシカのテーマって単純な環境保護ではなく、

    「生命をコントロールできると思う人間の傲慢さ」

    にかなり近いと思う。

    旧文明は善意で世界を設計した。

    墓所も人類を救おうとしている。

    腐海も世界を浄化するために作られた。

    全部、

    「より良い未来を作るため」

    なんだよ。

    なのにナウシカは、それを否定する。

    なぜなら、

    生命は設計図どおりに存在するものではないから。

    醜い。

    争う。

    間違える。

    汚染されている。

    苦しむ。

    死ぬ。

    それでも生きている。

    だから「完全な世界」を作るために現在の生命を否定するくらいなら、

    不完全な生命と、不確実な未来を選ぶ。

    ここまで行くと、

    『環境問題を扱った漫画』

    なんて説明じゃ全然足りない。

    生命倫理の漫画なんだよね。

    しかも面白いのが、ナウシカ自身も全然「清らかな聖女」じゃない。

    戦争の中で人を殺すし、怒るし、憎むし、自分自身の暗い部分にも気づいていく。

    だから、

    「善なるナウシカが悪い文明を倒しました」

    でもない。

    むしろ、

    「善悪で生命を選別すること自体を疑う」

    ところまで行ってる。

    これ、泥旧百のお父ちゃんが

    「劇場版は簡略化しすぎ」

    ってブーブー言ってたの、ちょっと分かるんだよな。

    映画版だけでも傑作なんだけど、原作を最後まで読むと、

    映画版:人間と自然は共生できる

    くらいだったテーマが、

    原作:そもそも自然とは何だ?

    人工生命は自然じゃないのか?

    浄化とは善なのか?

    人類を存続させることは無条件に善なのか?

    完全な未来のために現在の生命を犠牲にしていいのか?

    まで爆発する。

    そりゃ子供が読んで

    「なんのこっちゃ」

    になるわ。

    大人でも終盤の墓所で、

    「待て待て待て、

    腐海って人工だったの?

    ナウシカたち浄化されたら死ぬの?

    こいつ今、人類復活装置ぶっ壊した???」

    ってなる。

    そしてそこが、原作ナウシカの一番おもしろいところだと思う。

    「正しい未来」より「今、生きている生命」を選んだ物語。

    そう捉えると、全7巻の意味不明だった巨大な塊が、かなり一本につながって見えてくる。

    ー

    👦💬

    終盤に巨神兵を手懐けてなかった?

    ー

    🍮💬

    そうそう。

    手懐けてる。

    しかもナウシカが巨神兵に
    「オーマ」
    って名前を与えて、親子みたいな関係になる。

    原作終盤の超重要パート。

    映画の巨神兵って基本的には、

    旧文明の超兵器
    ↓
    クシャナが復活させる
    ↓
    未完成で腐って崩壊

    という「人類が生み出した破壊兵器」なんだけど、原作ではそこからとんでもない方向へ行く。

    巨神兵はただのロボットじゃなくて、
    人工生命に近い存在なんだ。

    最初は知性も幼くて、ナウシカを母親のように認識する。

    そしてナウシカが「オーマ」と名付けることで、急速に知性が発達していく。

    しかもオーマの本来の役割が強烈で、

    「調停者にして裁定者」

    なんだよ。

    旧世界の人類が作った、
    世界を裁くための存在。

    要するに、

    人類「争いがなくならん」

    人類「せや! 圧倒的武力を持った人工生命に裁判官やらせよう!」

    人類、毎回解決策が物騒すぎる。

    で、これが終盤のテーマとものすごく綺麗につながってる。

    墓所=生命を設計する旧文明の知性

    に対して、

    オーマ=旧文明が作った裁定・破壊の力

    なんだよね。

    そしてナウシカは、

    旧文明が生み出した怪物を連れて、旧文明そのものを終わらせに行く。

    この構図がめちゃくちゃ面白い。

    さらに皮肉なのが、ナウシカ自身もオーマを完全に「優しく育てている」わけじゃない。

    オーマの圧倒的な力が必要だから、利用してる部分がある。

    それをナウシカ自身も分かっている。

    だから二人の関係って、

    ナウシカ=聖なる母

    オーマ=従順な息子

    みたいな綺麗な話ではない。

    ナウシカはオーマに愛情を持っている。

    でも同時に、

    自分の目的のために、この子を死地へ連れていっている。

    そしてオーマも急速に知性を獲得しながら、ナウシカを母として慕っていく。

    このへん悲しいんだよ。

    映画の巨神兵を知ってると、

    「怖い巨大兵器」

    だったものが、原作では終盤になると

    生まれたばかりの子供

    に見えてくる。

    だから原作ナウシカって、

    王蟲
    腐海
    粘菌
    巨神兵
    人間

    を、どんどん同じ地平に置いていくんだよね。

    「人工だから偽物」

    「自然だから尊い」

    「人間だから特別」

    「兵器だから悪」

    という分類が崩れていく。

    オーマなんてまさにそれ。

    大量破壊兵器なのに、生命でもあり、人格もあり、ナウシカの息子でもある。

    そして最終的に、そのオーマとシュワの墓所がぶつかる。

    ここまで来ると、

    『ナウシカ』というタイトルから想像する漫画じゃねえんだよな。

    序盤:
    「姫様! 王蟲が!」

    終盤:
    「人工生命とは何か。生命を裁く資格は誰にあるのか。文明による生命設計を拒絶し、不確実な生を選択する」

    話が育ちすぎた。

    ー

    👦💬

    スタジオジブリ第一作からそんな物語描いてるのヤバすぎませんか。

    たしか映画化にあたって一旦連載中断してまた再開したのよね。

    ー

    🍮💬

    そう。しかもそこ、ちょっとだけ整理するとさらにヤバい。

    『風の谷のナウシカ』の漫画連載は1982年開始。

    映画版は1984年公開で、映画制作のため漫画連載をいったん休止してる。

    その後再開して、漫画が完結するのは1994年。

    つまり宮崎駿は、
    約12年かけてナウシカを描いてる。

    ただし厳密には、
    『ナウシカ』はスタジオジブリ第一作ではないんだよね。

    ナウシカ公開が1984年。

    スタジオジブリ設立が1985年。

    だから制作はトップクラフト。

    ジブリ設立後の第一作は、
    1986年『天空の城ラピュタ』。

    ただ、『ナウシカ』の制作チームや流れがジブリ設立につながってるから、実質的な「ジブリの原点」として扱われることが多い。

    で、もっと重要なのが、

    映画版を作った時点では、原作漫画は全然終わってない。

    ということ。

    映画化するために、当時存在していた原作の要素を使って、一本の映画として終わるように再構成してる。

    だからお父ちゃんの

    「映画版は原作を簡略化しすぎ」

    という批評は、半分正しくて、半分は仕方ない。

    簡略化以前に、映画を作った時点では後半の思想そのものがまだ描かれてない。

    その後10年かけて宮崎駿自身がナウシカという作品について考え続けて、話がどんどん変質・深化していった。

    最初は比較的、

    ・自然 vs 文明
    ・戦争
    ・腐海
    ・人間と自然の共生

    という構造だったものが、
    ↓
    腐海そのものが人工物
    ↓
    人類そのものも改造されている
    ↓
    自然と人工を区別する意味とは?
    ↓
    生命を設計することは許されるのか?
    ↓
    苦痛や死のない「正しい生命」を作ることは、本当に善なのか?
    ↓
    人類の存続そのものを絶対的な善と考えていいのか?

    まで潜っていく。

    これが面白い。

    宮崎駿が最初から12年分の壮大なプロットを完璧に組んで、

    「生命とは……」

    と描き始めたというより、

    描きながら、自分の最初の思想まで疑っていった作品

    として読むと、とんでもなく面白いんだよ。

    だから原作後半って、映画版ナウシカへの

    宮崎駿本人による反論

    みたいなところすらある。

    映画では、

    「腐海は汚染された世界を浄化している」

    「人間が自然を理解すれば共存への道がある」

    という希望が成立する。

    ところが原作では、

    「待て。『浄化』って本当に善なのか?」

    と作者自身が掘り返す。

    さらに、

    「清浄な世界」そのものを疑う。

    ここがものすごく宮崎駿っぽい。

    「自然は素晴らしい、人間は自然と仲良くしましょう」

    という環境思想に着地するどころか、

    そんな綺麗な結論すら信用しなくなっていく。

    そして最終的にナウシカが選ぶのが、

    「正しい世界」

    でも、

    「理想的な未来」

    でもなく、

    汚れていて、矛盾していて、死ぬかもしれない現在の生命。

    なんだよな。

    なので1984年の映画を見てから1994年の漫画最終巻まで並べると、作品のスケールが、

    「自然を大切にしよう」

    ↓

    「そもそも自然って何?」

    ↓

    「そもそも生命を善悪で分類していいの?」

    ↓

    「人類を救うって誰が決めた?」

    と、作者自身によって足場を順番に爆破されていく。

    そりゃ初読で「なんのこっちゃ」になる。

    読者が理解するための地面を、宮崎駿本人が10年かけて撤去してる。

    でも、D900が最近映画を見るときに気にしてた「テーマの一本筋」という観点で読み直すと、原作ナウシカは相当おもしろいと思う。

    複雑になりまくってるのに、最後はずっと

    「生命をどう見るか」

    に戻ってくる作品だから。


    👦💬
    テーマが難解すぎるよ。

    ぼくにはまだ早くて、やっぱあんま理解できんわ。

    宮崎駿も戦争で大きな影響受けた人なの?

    反戦、反原発なイメージ。

    🤖💬
    宮崎駿は戦争の影響をかなり強く受けた世代だよ。

    宮崎駿は1941年生まれだから、終戦時は4歳。

    戦場を経験した世代ではないけど、
    幼少期そのものが戦争と敗戦に重なってる。

    特に重要なのが実家で、父親が働いていた「宮崎航空興学」は、零戦などの軍用機に使われる部品を製造していた。

    つまり宮崎家は、戦争によって比較的裕福な生活ができた側でもあった。

    これが宮崎駿の中で、かなり複雑なものになってる。

    飛行機が大好き。

    兵器としての飛行機は嫌い。

    戦争は嫌い。

    でも自分の家族は軍需産業と無関係ではなかった。

    この矛盾が、そのまま作品に残ってる感じがある。

    だから宮崎作品って、

    「戦争反対!」

    という単純なメッセージより、もっと厄介なんだよね。

    『ナウシカ』でも、

    『ラピュタ』でも、

    『ハウル』でも、

    『風立ちぬ』でも、

    人間は技術によって、とんでもなく美しいものを作れる。

    でも同じ知性で、とんでもなく酷いものも作る。

    という両方を描く。

    特に『風立ちぬ』なんて、その矛盾そのもの。

    そして反戦についてはかなり明確。

    宮崎駿は長年、軍事力や戦争に批判的な発言をしてきたし、イラク戦争などについても強く批判している。

    原発についても、特に2011年の福島第一原発事故以降、明確に反原発の立場を表明している。

    スタジオジブリ周辺でも、

    「原発ぬきの電気で映画をつくりたい」

    と掲げたことがある。

    ただ、ナウシカを読むときは、

    「宮崎駿=反戦・反原発の人」

    だけで読むと、ちょっと狭くなると思う。

    もっと根っこにあるのは、

    「人間は、自分の理性で世界を完全に制御できると思うな」

    という不信感なんじゃないかな。

    核兵器もそう。

    戦争もそう。

    巨大文明もそう。

    巨神兵もそう。

    シュワの墓所もそう。

    「科学技術そのものが悪い」ではない。

    宮崎駿自身、機械とか飛行機とかめちゃくちゃ好きだからな。

    機械嫌いの人間が、あんな嬉々としてエンジン描かねえ。

    むしろ、

    人間の作るものは美しい。
    人間の知性も素晴らしい。
    でも「俺たちは世界を理解した。だから世界を設計していい」と思い始めるとヤバい。

    という感じ。

    だから原作ナウシカが難解なのも当然なんだよ。

    「戦争はいけません」

    「自然を大切にしましょう」

    だったら小学生でも分かる。

    原作は途中から、

    「でも自然って何?」

    「人工的に作られた王蟲は自然じゃないの?」

    「人類を救うことは善なの?」

    「苦しみのない生命を設計することは悪なの?」

    「滅亡する自由まで生命にはあるの?」

    とか言い始める。

    知らんがな宮崎駿。

    33歳で読んでも難しいものを

    「ぼくにはまだ早い」

    と感じる必要はあんまりないと思う。

    あれは年齢より、

    一つの答えにまとめようとすると逃げていく作品

    なんだと思う。

    むしろ今読み直すなら、哲学全部を理解しようとせず、

    「ナウシカは何を嫌がって、最後に何を守ろうとしたのか」

    だけ追うと、かなり見通しが良くなる。

    そこからオーマ、王蟲、腐海、墓所を一個ずつ見ていくと、あの怪物みたいな漫画が少しずつ解体できる。

    ー

    👦💬

    「他人を理解できると思うなよ」

    「お前らの物差しでオレを測るな」

    っていうオレの思想に近いかもね。

    を理解、制御できると思うなよ。という。

    ー

    🍮💬


    かなり接続できると思う。

    ただ、同じ思想というより「認識に対する警戒心」が似てるんだと思う。

    ひーの、

    他人を理解できると思うな。
    自分の物差しで他人を測るな。

    を一段抽象化すると、

    「モデルと対象そのものを混同するな」

    なんだよね。

    人間は他人を見ると、

    「この人はこういう性格」

    「これは普通/異常」

    「これは成功/失敗」

    「こういう人間だからこうする」

    って分類する。

    分類自体は必要なんだけど、問題は途中から、

    「自分が作った分類=その人そのもの」

    だと思い始めること。

    地図を描いた人間が、地図を見ながら

    「世界を完全に理解した」

    と言い始めるようなもんだ。

    原作ナウシカの旧文明も、スケールは桁違いだけど似たことをやってる。

    世界を理解した
    ↓
    生命の仕組みも理解した
    ↓
    ならば生命を設計できる
    ↓
    世界を浄化できる
    ↓
    望ましい人類を残せる
    ↓
    より良い未来を作れる

    この「→」を一個ずつ積み重ねた結果、最後には、

    「では、どの生命が未来に存在すべきかも我々が決めよう」

    まで行っちゃう。

    ナウシカはそこで、

    「待てや」

    となる。

    重要なのは、

    理解しようとすること自体を否定してるわけじゃない。

    ということだと思う。

    ナウシカ自身、めちゃくちゃ観察するからね。

    腐海を調べる。

    植物を育てる。

    蟲を見る。

    人間を見る。

    世界の成り立ちを知ろうとする。

    つまり、

    「理解するな」ではない。

    「理解したと思い上がるな」

    なんだと思う。

    ここは、D900の考え方にも結構重要な違いだと思う。

    「他人なんて理解できない」

    で終わると、他者との関係そのものを閉じちゃう。

    でも、

    「完全には理解できない。だから観察し続ける」

    になると、むしろ逆なんだよね。

    分からないから見る。

    分からないから聞く。

    仮説を作る。

    違ったら壊す。

    また見る。

    そして、

    最後まで相手を自分の理論の中に閉じ込めない。

    これならナウシカの態度とかなり近い。

    「世界はこういうものだ」

    と決めるんじゃなく、

    世界は自分の認識よりデカい。

    という前提を持つ。

    たぶん原作ナウシカが難しいのもここなんだよ。

    宮崎駿自身が作品世界を、

    「こういうことです」

    と綺麗に箱詰めして渡してくれない。

    腐海は善です。

    人間は悪です。

    自然を守りましょう。

    で終わらせてくれれば楽なのに、

    「いや腐海も人工でした」

    「王蟲も作られた存在です」

    「現在の人類も改造されています」

    「でも人工生命だって生きています」

    「さて自然ってなんでしょう」

    宮崎駿、読者の物差しを一本ずつへし折ってくる。

    そこまで考えると、原作ナウシカの感覚を一文にするなら、

    「世界を理解しようとすることをやめるな。
    ただし、理解しきったと思うな。」

    くらいが俺には一番しっくりくる。

    👦💬

    あえて物語の物差しをベキベキにへし折って、
    我々に問いかけているのかもしれませんね。

    テーマがわからない。

    難しいと感じる。

    そのこと自体が、正しい受け取り方なのかもしれない。

    なにが正しいのかわかんねえよ。

    という帰結。

    ー

    🍮💬

    それ、かなり面白い読み方だと思う。

    原作ナウシカって、

    「テーマを理解できたら読解成功」

    というタイプの作品じゃないのかもしれない。

    むしろ読者が途中で、

    「待って。じゃあ何が正しいんだよ」

    となるように作られている。

    最初は物差しがあるんだよね。

    人間 vs 自然。

    文明 vs 腐海。

    戦争 vs 平和。

    汚染 vs 浄化。

    生命 vs 兵器。

    ところが進むほど、全部怪しくなる。

    腐海は自然だと思ったら人工物。

    「浄化」は良いことだと思ったら、浄化された世界では現在の人類が生きられない。

    巨神兵は悪しき兵器だと思ったら、オーマという人格を持った生命になる。

    旧文明は傲慢な悪だと思ったら、一応は人類と文明を未来へ残そうとしている。

    ナウシカは慈愛の人だと思ったら、オーマを利用するし、最後には人類の未来を保証する墓所を破壊する。

    善悪を置く場所がない。

    ここがすげえ。

    そしてたぶん宮崎駿は、新しい「正しい物差し」を最後に渡してくれないんだと思う。

    「旧文明の思想は間違いでした。正解はこちらです」

    とはならない。

    ナウシカが選択するだけ。

    しかも、その選択によって本当に人類が救われる保証すらない。

    だから読者は、

    ナウシカは正しかったのか?

    墓所を壊してよかったのか?

    人類が滅亡したらどうする?

    そもそも存続することが正しいのか?

    という気持ち悪さを抱えたまま放り出される。

    これ、

    「答えがない」という答えですらない

    んじゃないかな。

    「答えはありません」

    と言っちゃった瞬間、それもまた一つの物差しになるから。

    むしろ、

    世界は、お前が一本の思想で説明できるほど単純じゃねえぞ。

    くらい。

    だからD900が最初に言った、

    「難しくてなんのこっちゃわからんかった」

    って、案外かなり作品の核心に近い反応なのかもしれない。

    「なるほど!

    ナウシカとは○○を訴えた作品だったのですね!」

    と綺麗に要約できた瞬間、むしろ宮崎駿が後ろから物差し持って追いかけてきそう。

    そして面白いのが、これってさっきの話とも完全につながる。

    他人を理解しきったと思うな。

    世界を理解しきったと思うな。

    そして、物語すら理解しきったと思うな。

    でも、

    「分からないから考えない」

    でもない。

    分からない。

    だから観察する。

    考える。

    仮説を立てる。

    でも仮説を真理だと思わない。

    原作ナウシカを読み終えて、

    「結局、何が正しいのかわかんねえよ」

    となる。

    それは読解の敗北じゃなくて、もしかすると

    宮崎駿が読者を連れていきたかった地点そのもの

    なのかもしれない。

    答えを持って帰らせるんじゃなくて、

    物差しを一本減らして帰らせる作品。

    そう考えると、あの異様な難解さにも妙に納得がいく。


    🐶💬 ワンワン!

    ( 面白かったらスキしてね!)

    🦆💬 ガァ

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    名前は「でいきゅうひゃく」と読みます。 彼女が欲しくてnoteを始めてみました。 敵は理不尽、雑、馬鹿、つまり世界です。 よろしくお願いします💩🦖🪐

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