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短編小説 | 落ち着いたので

    精神科病院で、
    ある研修が行われることになった。

    患者への全身拘束について、
    人権上の問題が指摘されたためだった。

    「拘束される側の気持ちを」
    「医療者自身も知るべきではないか」

    そういった意見を受けて、
    精神科医の一人が
    実際に患者へ使用している拘束具を
    体験することになった。

    医師は気軽に引き受けた。

    せいぜい数分。
    長くても十分程度だろう。
    そう思っていたからだ。

    身体拘束が苦しいことくらいは理解している。

    しかし暴れて自分や他人を傷つける患者がいる。
    看護師に危険が及ぶ可能性もある。

    必要だから行われている処置だ。

    短時間体験したところで、
    その考えが変わるとは思わなかった。

    医師は病室のベッドに横たわった。

    両手首。
    両足首。
    腰。
    胸。

    看護師たちが、
    いつも患者にするのと同じように
    拘束具を取り付けていった。

    身体を動かそうとしてみたが、
    ほとんど動かなかった。

    「かなりしっかり固定されるんですね」

    「安全のためですからね」

    「これは長時間だと、負担があるかもな」

    「では、失礼します」

    「あ、はい」

    扉が閉まった。

    誰かを呼びに行ったのだと思った。

    医師は天井を見た。

    五分ほど経った。

    そろそろ来るだろう。

    十分ほど経った。

    違和感を覚えた。

    「すみません」

    返事はなかった。

    さらに時間が経った。

    「もういいですよ」

    誰も来ない。

    病室に時計はなかった。

    「誰かいますか?」

    少し声を大きくしたが、返事はない。

    喉が渇いてきた。

    「水をください」

    しばらくすると看護師が来た。

    医師は安心した。

    「もう終わりですか?」

    看護師は答えず、
    少量の水を飲ませた。

    「すみません、拘束を外してください」

    看護師はコップを片付けた。

    「ちょっと待ってください!」

    そのまま部屋を出ていった。

    扉が閉まった。

    「嘘だろ…?」

    これはいつまで続くんだろうか。

    どれほど待っても、誰も来なかった。

    腰が痛い。

    背中が痛い。

    少し身体を横にしたい。

    それすらできない。

    もう時間感覚がわからなくなった頃、
    再び看護師が来た。

    「今、何時ですか?」

    答えはなかった。

    「これ、いつまでやるんですか?」

    看護師は排泄の処置を始めた。

    オムツを履くように指示されていたが、
    お世話になるとは思っていなかった。

    「ここまでやる必要あります?」

    何も答えない。

    「研修ですよね」

    処置が終わると、
    看護師は出ていった。

    「研修だよな」

    様々な考えが頭を巡る。

    「誰か来てください」

    返事はない。

    「もう十分でしょう!」

    声が荒くなった。

    「外してください!!」

    誰も来ない。

    手首を捻った。

    拘束具が皮膚に食い込んだ。

    痛かった。

    それでも何度も動かした。

    少しだけ隙間がある。

    いつもなら使わない筋肉を使って、
    無理やり手首を引いた。

    皮膚が擦れた。

    何度も、何度も、繰り返した。

    やがて、右手が抜けた。

    「よし……」

    久しぶりに体勢を変えられる。
    そう思った瞬間、扉が開いた。

    大柄な男が4人入ってきた。

    医師は安堵した。

    「やっと来たか」

    男たちは何も答えなかった。

    抜けた腕を掴み、
    ベッドへ押し戻した。

    「は?」

    拘束具が再び取り付けられた。

    前より強く締められた。

    「待ってください!」

    医師は抵抗した。

    男の一人が肩を押さえた。

    もう一人が腕を押さえた。

    急に力を込められると、
    身体が強張る。

    その身体の防御反応すら、抵抗と判断された。

    「やめろ!!」

    暴れるほど、
    強く押さえつけられた。

    「痛い!」
    「緩めてください!」

    誰も答えなかった。

    男たちは作業を終えると、
    部屋を出ていった。

    医師は叫んだ。

    「ふざけるな!!」

    「研修じゃないのか!!」

    「誰か来い!!」

    喉が枯れるまで叫んだ。

    誰も来なかった。

    気付けば眠っていた。

    目を覚ました時も、
    まだ拘束されていた。

    そこでようやく、
    一晩を越えたことに気づいた。

    「なにが起きてるんだ?」

    今日には終わる。

    そう思った。

    だが終わらなかった。

    水を飲ませてもらった。

    排泄の処置をされた。

    身体を拭かれた。

    しかし拘束は外されなかった。

    「いつまでですか?」

    返事はない。

    「どうすれば解放されますか?」

    返事はない。

    「なぜ答えてくれないんですか?」

    返事はない。

    時間だけが過ぎた。

    気絶するように眠り、体の痛みで起きた。

    医師は暴れてみた。

    誰か来れば、
    今度こそ話を聞いてもらえると思った。

    再び手の拘束を無理やり解いた。

    ほどなくして、
    本当に男たちが来た。
    男たちは医師を押さえつけた。

    「違う!」
    「暴れてるんじゃない!外してほしいだけだ!」

    そう言ったつもりだった。
    しかし喉が枯れていて言葉にならなかった。

    拘束具はさらに締められた。

    「やめろ!」

    「話を聞け!」

    実際は言葉になっていない、
    割れるような絶叫が、
    病室にこだました。

    抵抗すればするほど、
    身体を強く押さえられた。

    暴れれば、
    危険だと判断される。

    拘束を抜けようとすれば、
    さらに強く拘束される。

    助けを求めて身体を動かしても、
    「興奮している」と判断される。

    何日目なのかわからなくなった。

    医師は叫ばなくなった。

    水を飲ませてもらう時だけ口を開いた。

    「もう少し」

    それだけ言った。

    看護師は規定量を飲ませると、
    コップを下げた。

    「では」

    看護師は出ていった。

    腰が痛かった。

    背中も痛い。

    手首も足首も擦れていた。

    痒いところがあっても掻けない。

    汗をかいても拭けない。

    今が何時なのか知りたかった。

    今は何日なのか知りたかった。

    あとどれくらいこの状態なのか、
    知りたかった。

    誰も教えなかった。

    やがて、
    医師はそれも聞かなくなった。

    看護師が入ってきても、
    医師は天井を見たままだった。

    「先生、水ですよ」

    少し遅れて、口を開いた。

    飲み終えると、
    また天井を見た。

    「体調はどうですか?」

    返事をしなかった。

    以前なら、
    会話すれば状況が好転すると思った。
    もう期待しなかった。

    看護師が医師の顔を覗き込んだ。

    「今日は落ち着いてますね」

    医師は何も言わなかった。

    「先生、聞こえますか?」

    少し間を置いて答えた。

    「はい」

    看護師は他の職員を呼んだ。

    拘束具が一つずつ外された。

    手首。

    足首。

    腰。

    胸。

    突然、
    身体が自由になった。

    医師は意味がわからなかった。

    「……終わりですか?」

    「はい」

    「何日……経ったんですか?」

    看護師は答えた。

    「一週間です」

    医師は何も言えなかった。

    数分で済むと思っていた。

    終わりを知らされないまま、
    一週間が経っていた。

    別室へ移され、
    水を飲み、
    しばらく休んだ。

    その後、
    研修担当者が向かいに座った。

    「実際に体験してみて、どう思われましたか?」

    医師は赤く腫れた手首を見た。

    「……非常に苦痛でした」

    担当者は頷いた。

    「拘束時間は、可能な限り短くするべきです」

    「すでに必要最小限と定められています」

    「巡回も増やした方がいいと思います」

    「人員の問題があります」

    「せめて、いつ拘束が解除されるのか」
    「本人に伝えるべきです」

    「解除時刻を事前に決めることはできません」
    「状態を見て判断しますので」

    医師は黙った。

    「水分補給の回数は?」

    「基準通りです」

    「姿勢を変える回数を増やすことは」

    「安全上、難しい場合があります」

    医師は自分の手首をさすった。

    「拘束されることで暴れる患者もいると思います」

    担当者は少し考えた。

    「興奮状態にある患者は」
    「そう訴えることがあります」

    「そうではなくて……」

    担当者が尋ねた。

    「ほかにありますか?」

    医師はしばらく黙った。

    「……いえ」

    「では、身体拘束そのものについては?」

    医師は再び手首を見た。

    何度も解いて、
    その度にきつく拘束された。

    血が滲んでいた傷口は、
    すでに瘡蓋になっていた。

    「非常に難しく、複雑な問題だと思います」

    「はい」

    「本人が怪我をする場合もある」
    「ほかの患者を傷つけることもある」
    「看護師に危険が及ぶ場合もあります」

    担当者は頷いた。

    「もちろん、安易に行うべきではありません」
    「他に方法がない場合に限って行う」
    「限定的な処置であるべきです」

    担当者は大きく頷いた。

    「その通りです」

    医師はもう一度だけ、
    自分の手首を見た。

    そして言った。

    「やはり、身体拘束は必要ですね」


    完


     
     
    名前は「でいきゅうひゃく」と読みます。 彼女が欲しくてnoteを始めてみました。 敵は理不尽、雑、馬鹿、つまり世界です。 よろしくお願いします💩🦖🪐

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