メインコンテンツへスキップ
見出し画像

撫で終わりの書|【狸の掌編】

    路地裏の古道具屋。

    その店の奥、
    時間の流れから忘れられたような棚の上で、
    私はその絵本と出会った。

    ざらりとした質感の深い赤色の表紙。

    タイトルは金色のインクで
    『霧隠しの絵本』とだけ記され、
    指でなぞるとその文字の微かな凹凸が伝わってくる。

    「珍しいものに目をつけなすったね」

    店主の老人が、埃っぽい匂いの中から顔を覗かせる。

    私は何も言わず、ただ絵本を胸に抱きしめ、
    なけなしの硬貨をカウンターに置いた。

    ***

    アパートに戻り、軋む床に腰を下ろす。

    表紙をめくると、
    古い紙の乾いた匂いがふわりと立ちのぼる。


    最初のページには、
    賑やかな小さな村が描かれていた。

    指先で触れると、家々の輪郭、
    道行く人々の息遣いまで感じられる。

    インクの盛り上がりが、
    まるでそこに本物の村が存在するかのように、
    生き生きとした感触を返してくる。


    次のページをめくる。

    村の向こうの山裾に、淡い霧が描き足されていた。

    気のせいか、
    部屋の空気が少しだけ湿ったように感じられる。

    窓の外から聞こえていた車の走行音が、
    一枚の薄い膜を隔てたように遠のく。


    ページを進めるたびに、
    絵の中の霧は密度を増していく。

    村の家々を覆い、教会の尖塔を隠し、
    やがて道さえも見えなくしてしまった。

    それと呼応するように、私の部屋もまた、
    静かで湿った沈黙に満たされていく。


    階下から聞こえていた夫婦の話し声が消えた。

    壁の時計が時を刻む音も、
    湿気に吸い込まれたように途絶えた。

    向かいのアパートから届いていた、
    温かい生活の気配も、もうこちらへは届かない。

    まるで世界から、一枚一枚、
    音が剥がされていくように。

    それは恐怖のはずなのに、
    私の心は不思議と凪いでいた。

    絶えず流れ込んでくる情報の洪水から、
    解放されたような奇妙な安堵感。


    私は最後のページに指をかけた。

    そこにはもう、何も描かれていない。
    ただ、ひんやりと湿った紙の感触があるだけ。

    平坦でどこまでも均一な虚無。


    すると、最後の音が消えた。

    私がページをめくる、乾いた指先の摩擦音さえも。

    部屋は完全な霧に包まれる。

    家具に触れると、
    夜露に濡れたように冷たい水滴が指につく。

    匂いも音も、気配もない。

    ただ、私とこの絵本だけが存在する、
    真っ白な静寂の世界。


    皆はこの沈黙を恐れるのだろうか。
    この白に閉ざされた世界を。

    けれど、私にとっては安らぎそのものだった。
    私の世界が、
    ようやくこの絵本の終わりに追いついた。


    だって、私は最初から
    何も見えていなかったのだから。


    他の作品もどうぞ⬇️


    画像


    #創作大賞2025 #オールカテゴリ部門 #狸


    あなたへのおすすめ