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フレームの中の私へ|【狸の掌編】

    彼の部屋はいつも静かだ。

    窓の外で雨が降っても強い風が吹いても、
    部屋の中には音が届かない。

    分厚いガラスで隔てられているように。

    なによりも奇妙なのは、
    この部屋には何の匂いもないことだった。

    淹れたてのコーヒーからは湯気が立つだけで、
    あの香ばしいアロマは立ち上らない。

    彼が買ってきた花束もただの色の集合体でしかない。

    私の鼻がいつの間にか壊れてしまったのだろうか。


    「ただいま」


    ドアが開いて、彼が帰ってくる。

    写真家である彼は、
    いつも薬品とインクの混じった匂いを
    纏わせていたはずなのに、
    今の私には何も感じられない。

    彼は私に近づくと数歩手前で足を止め、
    柔らかく微笑んだ。


    「疲れただろう。今日はもう休むといい」


    その手は決して私に触れようとはしない。

    私が伸ばした指先は、いつも空を切る。

    彼のそのよそよそしさが、
    私の胸を小さな棘でちくりと刺した。


    何かが、おかしい。彼が何かを隠している。


    部屋の壁には、
    彼が撮った私の写真が一枚、飾られている。

    去年の秋、金木犀の木の下で撮ったものだ。

    彼はその写真を
    「香写封(こうしゃふう)」と呼んだ。

    「
     君という存在のその香りの全てを、
     この一枚に焼き付けて閉ざしたんだ。
     これで君は、永遠に色褪せない。
     」

    ロマンチックな愛の言葉だと、その時は思った。

    けれど今、彼は私自身ではなく、
    壁の写真をじっと見つめている。

    その瞳は、
    失われた何かを慈しむようにひどく優しい。

    「ねえ」

    耐えきれずに私は声を震わせる。

    「
     どうして私に触れてくれないの?
     あなたが隠していることは何なの?
     」

    彼は答えず、ただ悲しげに目を伏せる。

    そして、ゆっくりと壁に歩み寄り、
    私の写真が収められたフレームにそっと指で触れた。

    金木犀の木の下で微笑む、写真の中の私に。


    「ずっと、ここにいてくれるね」


    その囁きは私にではなく、
    写真の中の「私」に向けられていた。

    その瞬間、私の意識はぐにゃりと歪み、
    目の前の部屋の景色が急速に色褪せていく。

    壁も、床も、彼自身の輪郭さえもが薄れ、
    平坦な一枚の絵になっていく。

    私の世界が、
    写真のフレームの内側へと収束していった。

    ***

    現像液の匂いが満ちる暗室で、
    彼は現れた写真にそっと触れる。

    すると、印画紙の中から微かに、
    私という存在が失ったはずの金木犀の香りがした。


    初めての長編に挑戦しました。⬇️

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    #創作大賞2025 #オールカテゴリ部門 #狸


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