
ペトリコール🍧
田んぼの畦道に立つと、草いきれから立ち上る陽炎が視界をゆらりと歪ませた。
青々とした稲の根元を、カブトエビの群れが泳いでいく。
暑すぎるのか、カエルの鳴き声は聞こえない。
ザリガニのハサミが早く行けと急かすから、つぎの畦に飛び乗った。
稲穗をわたる風が追いかけてきたはずなのに、ふと風向きを変えてどこかへ消えていく。
虫捕り網をもった子どもたちが走り去っていった。
誰かの「暑いねえ」という言葉が、そのまま肌にまとわりつく。
ハンカチで首筋をふく。
画用紙に描いたようなベタな青空。
太陽は容赦なく頭上で燃えている。
街じゅうが焦げるほどの、白い世界。
駄菓子屋の店先に入った。
軒下の日陰に逃げ込んだところで、暑さは消えない。
大きな楠の木の漏れ日が、どこかの校庭にステンドグラスを描く。
指先を動かす気力さえ削ぐような、濃密で重たい熱気。
店の中では近所の子供たちが、いろんなお菓子を手にぐるぐると、流しそうめんのように回っている。
ふと見上げると、鎮守の森の深緑が、風に枝を揺らしていた。
そこだけ時間がふっと止まったような静けさ。
相変わらず蝉時雨シャワーがとめどなく。
店の奥で扇風機が、首を振るたびにカチカチ頼りなく音を立てる。
羽根は黄色くくすんでいて、生温い空気をかき混ぜるだけだった。
カフェドマキニカリスを思い出す。
田舎の静けさは、風景の体温だった。
蒼く霞んだ遠くの稜線を辿るように、雲がゆっくりと形を変えていく。
わたあめのように膨れ上がった入道雲が、今にも空を覆いつくしそう。
それでいて、駆け足でやってくる雨雲は、いつも驟雨を連れてくる。
リュックの背中が、じっとりとした汗で湿っている。
「暑いなあ……」
そう口にしても、誰が応えるわけでもない。
石畳の上を熱気が転がっていく。
空が急に暗くなり、匂いが変わる。
湿気た風と共に、通り雨がやってくる。
逃げ水のように、夕立が足早に通り過ぎていく。
雨上がりの濡れた田んぼと、鎮守の森と、湿った風。
よく見れば、深緑の中に点々と黄緑が混じっていた。
ソフトクリームのように入道雲が崩れて、雨雲の中に溶けていくのを眺めていた。
さっきまであんなに眩しかったのに、すべてが夢のように遠くなって、静寂に吸い込まれていった。
ぼちぼち帰ろうと駄菓子屋を出たところで、店先に転がっていたラムネの瓶にすべって足を掬われて転けた。
昏倒して時間が止まる。
口の中の錆びた味。
風は肺のなかで砂を噛み、畦道は自らの皮を剥ぐ。
太陽は眼球を焼く金輪。
ギ……
ギ……
思考は瑠璃色のビー玉になって、地面の耳に吸い込まれる。
弾け飛んだ視界の断片、反射する光の破片。
影を食う木々。
鎮守の森は沈黙を嚥下する食道。
駄菓子屋の軒下。
重力で吊り下げられている。
蝉の腹から溢れ出す。
切り刻まれた時間。
ホーシーツクツク。
ホーシーツクツク。
音節が肉を突き刺す。
退屈な黒いインク。
白い道を塗りつぶしていく。
縫い目はほつれ。
溶けた石畳はカルビでこんがり。
通り雨のナイフ。
入道雲は膨張する延髄。
雲の塊が、空の喉を塞ぐ。
溶ける太陽と影の輪郭。
この一滴の清涼感。
消えるための円運動。
土埃の匂い。
鼻腔の奥でジャリッ。
澱んだ空気の底。
鉄の味。
カチ、チン。
カチ、チン。
足元から這い上がってくる。
硬質なガラスの衝突音。
ジリジリと鼓膜を焦がす。
高周波のノイズ。
塩っぱい汗の匂い。
喉の奥にへばりついて。
むせ返るような青葉。
古本の匂いが頭上から。
耳を塞ぐように。
朽ちかけた木材の匂い。
微かに漂うほうじ茶の香り。
ギシ……ギシ……
ホーシーツクツク。
鼓膜を直接針で。
海馬を引っ掻くような。
感じない感じ。
バサッ、シュル。
バサッ、シュル。
空気を規則的に擦る音。
生温い唾液ばかりが。
ひび割れた唇の隙間から。
輪郭を持たない。
微細な振動。
ギン。
ジャリ。
カチ。
ホーシーツクツク。
ホーシーツクツク。
バサッ。
シュル。
ザーッ。
バリッ。
空気が裂ける。
硬い石をパタパタ。
不規則な足音。
水と土の臭気。
ホワイトノイズ。
すべてを洗い流し。
上向いた舌先。
冷たい雨粒が。
ゴロゴロ重低音。
オゾンの匂い。
バサッ、シュル。
バサッ、シュル。
ルルル。
ポタリ。
ポタ。
ポタ。
「……おい、兄ちゃん大丈夫かい?」
「……あ、ちょっとコケただけです」
「そこのラムネ1本あげるから、飲んでいきな」🥤🪲
