メインコンテンツへスキップ
見出し画像
Photo byabroader

旅行カバンに忍ばせたい。非日常の空間で味わう極上の読書

    出発の前夜、カバンに本を1冊入れる瞬間がある。

    どれを持っていくか、書棚の前でしばらく迷う。行き帰りの移動で何ページ読めるか、ホテルの夜に手が伸びる本はどれか——そう考えながら背表紙を眺めているとき、旅はすでに始まっている。

    旅先での読書は、なぜか特別な輝きを帯びる。飛行機の中では通知が来ない。新幹線の座席は、カフェほど騒がしくなく、自宅ほど誘惑も多くない。ホテルの部屋に一人でいる夜は、ページを開く以外に急ぐことがない。日常という騒音が遮断されると、本の世界への入口が広くなる。読書という行為と旅という体験が溶け合って、どちらかだけでは生まれなかった体験になる。

    この記事では、そういう特別な時間をより豊かにしてくれる5冊を選んだ。有名すぎず、でも読後感が深い——日常の書棚ではなんとなく手が伸びなかったような本を、旅という非日常の文脈で手にしてほしい本たちだ。

    鳥の声のように、ただ傍にいてくれる

    ことり(朝日文庫)(小川洋子)

    小川洋子の「ことり」は、ある兄弟の静かな一生を描いた小説だ。兄は人間の言葉が苦手で、鳥の鳴き声のような独自の言語で弟とだけ話していた。やがて弟を失った「小鳥の小父さん」は、一人で年老いながら近所の小鳥たちとひそやかな交流を続けていく。

    あらすじだけ聞くと地味な話に思えるかもしれない。だが読み始めると、その静けさ自体が物語の核心だとわかる。誰にも理解されない言語を持つこと、何者でもなくただそこに存在することの尊さ——小川洋子は圧倒的な密度で、その静けさを書き切る。

    旅先の夜、外の喧騒がホテルの窓越しに遠く聞こえる中でこの本を読むと、不思議な落ち着きが訪れる。この本は何かを教えてくれるわけではない。ただ、傍にいてくれる。そういう読書体験を与えてくれる1冊だ。

    文庫版で200ページ強。移動時間に読み始め、ホテルで読み切る、旅にちょうどよいボリュームも嬉しい。

    旅しながら、書くことを考える

    旅する練習(講談社文庫)(乗代雄介)

    コロナ禍の始まった2020年、作家の叔父と小学生の姪がともに千葉・我孫子から茨城・鹿島神宮まで徒歩で旅をする。叔父は道中の植物や鳥を観察しては小説のような文章で書き留め、姪はサッカーのドリブル練習をしながら歩く。ロードムービーのような構造の中に、文学・言葉・書くという行為への問いが静かに編み込まれている。

    作中に引用される中島敦の「山月記」、プルーストの断章、バッハの無伴奏——これらの参照点が旅の道中の風景に溶け込んでいく。文章自体が豊かで、読むこと自体が旅のような体験になる。

    乗代雄介の文章は密度が高く、速読に向かない。だからこそ旅先に向いている。急ぐ必要のない時間の中で言葉の質感を確かめながら読む——その贅沢な読み方を、この本は要求する。三島由紀夫賞受賞作。まだ知名度は高くないが、文学的密度においてベテラン作家を凌ぐ水準の作品だ。

    読書をしている自分を読む、という逆説

    The Uncommon Reader(Alan Bennett)

    日本語版:やんごとなき読者

    エリザベス女王がある日偶然に、読書の喜びを発見する——それだけの話だが、アラン・ベネットの筆にかかるとこれほど上品で愉快な物語になる。

    女王はひょんなことから宮殿裏の移動図書館に迷い込み、何冊かを借り始める。気づけば読書に夢中になり、公務の最中にも本のことを考えるようになる。スタッフは困惑し、側近たちは対策を話し合い、政府は「女王が読書をしすぎている」と懸念する。

    この本の愉快さは、読書する人間に何が起きるかを描いている点にある。本を読むと視野が広がる。視野が広がると今まで当たり前だと思っていたことが問い直される。問い直すと既存の構造が揺らぐ——それが英国の君主に起きるから滑稽であり、しかし普遍的でもある。

    原著は150ページほどの中編だ。文章はイギリス式ユーモアが上品に混じった平易な英語で、洋書多読の経験者なら軽快に読み進められる。日本語版「やんごとなき読者」(白水社)も読みやすく、英語の負荷が心配な場合はこちらから入るのもいい。

    旅先でこれを読む体験には、一種の入れ子構造がある。非日常の空間で、読書によって非日常を経験する女王の物語を読む——その二重性が、旅の夜をすこし特別にしてくれる。

    空の果てへ飛んだ女の、記憶の書

    West with the Night(Beryl Markham)

    1936年、イギリス人の女性飛行士バーリル・マーカムはヨーロッパからアメリカへ、大西洋横断単独飛行を成し遂げた。アフリカで馬の調教師として育ち、やがて飛行士になった彼女が書いた回顧録がこの本だ。

    アーネスト・ヘミングウェイはこの本を読んで「彼女は我々男たちよりも上手く書く。信じられないほどに」と手紙に書き残したとされている。実際、マーカムの文章はいまも読者に鮮烈な印象を与える。アフリカの夜明けの光、地平線上の嵐、エンジン音の向こうに消えていく時間——その描写は文学的で、ノンフィクションを読んでいることを忘れさせる。

    現時点では日本語翻訳版は入手困難な状況だが、英語はリズムよく、技術書とは全く異なるスタイルで書かれているため、英語多読の経験がある人なら辞書なしに楽しめる。

    空港のラウンジや機内で、空を飛ぶことへの情熱が書かれたこの本を開く——その偶然の一致が、旅の読書を特別な体験にする。どこへ行くかも定かでなかった時代に「西へ飛ぶ」という選択をした一人の女性の声に、旅の原初的な興奮を重ねながら読める1冊だ。

    地味で深く、静かに胸を打つ

    Stoner(John Williams)

    日本語版:ストーナー

    1965年に刊行されたアメリカの小説だ。農家の息子ウィリアム・ストーナーは大学で文学に出会い、一生を大学教員として過ごす。出世もせず、家庭は機能せず、学内での地位も低い——それがすべてだ。

    なのに、この本はなぜこれほど人の心を動かすのか。

    ストーナーの人生に英雄的な出来事は何もない。それでも、文学を愛するという一点においてだけは、彼は揺るぎない。失意の日々の中でも、授業の準備をし、テキストを読み、言葉の意味を考え続ける——その姿が、静かな声で何かを語りかけてくる。

    旅先で読む「Stoner」は、日常に戻ることへの視点を変えてくれる。自分の仕事、人間関係、何気ない日々——それらをどう受け取るか。地味な一生を送ったひとりの男の物語が、旅という非日常を経由することで、妙な深さで沁みてくる。

    英語は平易でリズムよく、300ページほどだが内容の密度が高い。日本語版「ストーナー」(作品社)も名翻訳として評判が高く、どちらから読んでも後悔しない。

    旅先での本の選び方

    旅向きの本を選ぶときに、個人的に意識していることが3つある。

    まず、日常の文脈を必要としない本を選ぶ。シリーズの途中巻や、前作を知らないと入りにくい本は旅先に向かない。その1冊だけで完結する物語を持っていく。

    次に、分厚すぎない本を選ぶ。旅の読書は断続的になる。移動中に読んでも、食事で中断してもいい——100〜300ページで一段落つく本がちょうどいい。読み切ったという感触が、次の旅への意欲にもつながる。

    最後に、旅先の空気感と共鳴する本を選ぶ。自然の多い土地に行くなら、植物や動物の描写が豊かな本。飛行機に乗るなら、空や移動にまつわる本。そういう選び方が旅の記憶と読書の記憶を重ね合わせ、どちらも鮮明にしてくれる。

    旅と読書はどちらも「非日常に踏み込む行為」だ。その二つが重なる瞬間は、記憶に残り続ける体験になる。カバンに1冊。それだけで旅の豊かさは変わる。

    最初の洋書を確実に読み切りたい人はこちら。 → 「初めての1冊を読み切った!」という自信をくれる、ページ数が少なめで読みやすい洋書リスト

    映像化作品の原作洋書で上級の英語多読に挑みたい人はこちら。 → 映像化された作品は、最高のリーディング教材。話題のNetflixドラマの原作洋書で挑む、超上級レベルの英語多読

    洋書多読をゼロから始めたい人はこちら。 → 英語が「読める」に変わる瞬間|TOEIC 600点台から始める洋書多読の教科書

    ※本記事にはAmazonアソシエイトリンクが含まれています。Amazonのアソシエイトとして、適格販売により収入を得ています。

    著者プロフィール

    国内外で10年超のキャリアを持つITエンジニア有志による読書ユニット。全員が多読を通じTOEIC 950超や駐在を経験。

    「IT×教養」を軸に、技術書からノンフィクションまで、各メンバーが専門視点で厳選した洋書をレビューします。エンジニアが英語を武器にするための知見を共同発信中。

     
     

    Davide

     
     
    国内外で10年超のキャリアを持つITエンジニア有志による読書ユニット。全員が多読を通じTOEIC 950超や駐在を経験。「IT×教養」を軸に、技術書からノンフィクションまで、各メンバーが専門視点で厳選した洋書をレビューします。エンジニアが英語を武器にするための知見を共同発信中。

    あなたへのおすすめ