
お別れの夜に酸っぱい蜜柑サワー
不幸があって静岡へ行った。10年ほど前、「東京を手放すことにした」という友人の印象的な言葉をきっかけにした記事で取材させていただいた方で、ご夫婦に話を聞いた。それ以降、直接お目にかかることはなかったが、何をしていらっしゃるかは常に意識しており、近隣で災害が起きた時には何が起きていたのか、一言二言やりとりがあったりした。
週末近くにお別れの会の告知を見て次の日、夕方から出かけたのだが、広く愛されていた人らしく、多くの人が詰めかけていてその風景を見ただけで涙が出そうだ。既知の顔もいくつかあり、少し話した。いずれも10年ぶり。それでも互いを覚えているのは不思議だ。
取材では毎週新しく何人もの方にお目にかかる。そのうちには1カ月としないうちに内容も含めてごっそり忘れてしまう例もあるのだが(すいません)、10年前、20年前、いやそれ以上前でも明確に覚えている方もいらっしゃる。あれはなんなんだろうと時々思う。
だってさ、隣に座った人から、ほら25年前に、なんとかという話を聞かせていただいた●●さんですよね?って不思議じゃない?記憶力ほぼゼロを自負している私だが、時々は思い出す。そうした方々については折に触れて思いだす。その方がいらっしゃる場所の地名を聞くと必ず思い出す方もいらっしゃり、そんな時には時間が吹っ飛ぶ。妄想とは分かっているけれど、人間は時として時間、空間を吹っ飛ばせるのだろうと思っている。
そんな帰り、駅脇にあるカウンターで一杯飲んだ。私以外は2人あるいはグループ。お隣のお二人は日本語ではない、私が分からない国の言葉でゆったり話しながら豚骨ラーメンを召し上がっていた。仕事帰りらしい、上司についてあれこれ言い合うグループ、旅行に来たと思しき女性2人連れ。
いろいろな言葉が私の周りを巡る。それぞれ、とてもよく聞こえていて、内容も分かるのだけれど、不思議なことに分からなくもある。なんといえば良いのだろう、透明な繭の中にいる、あるいは私自身が透明になっているような。私から周囲は見えているけれど、周囲から私は見えない。
時々、そういう場に身を置きたくなる。人が死んで、でも、もし、意識というものがどこかに残っているとしたら、こういう感覚なんじゃないかと思っている。いや、思いたい。だから、そんな気持ちになれる場に行く。たくさんの人の中に一人、でも、一人じゃない、いや、一人だ。そんな感覚。
泣きたいような気もするが、泣いてもなあと思いながら酸っぱい蜜柑サワーを飲む。静岡だもんな。