
【メモ】5/5「下村観山展」@東京国立近代美術館
行ってきたよ。
人も多く、あっさり見る感じになっちゃった。単眼鏡を推奨していたので持参したが、キービジュの《弱法師》も前期のみ展示だったようで、後期は小さいバージョンしかなく、特に出番もないまま小一時間で見終えた。あ、一度だけ、人だかりで読めないキャプションを単眼鏡を使って読んだ。ダイイングメッセージを読んでいるようでスリリングだった。
あともう1回、水たまりで小さな鳥が行水してるような絵があって、何の気なしに単眼鏡で覗いてみたら、5センチほどの鳥(カラスであった)の数ミリの目が笑っているように見えてギョッとした。

11歳の頃の作らしい。

模写。公費でイギリスに留学してるのね。その辞令みたいな紙もめちゃくちゃきれいな状態で残ってておもろかった。写真撮ればよかった。

真ん中(魚籃観音)、モナリザを下敷きにしてるって。

テナガザル。上野動物園で見たんだろうね。なぜか一部青色のライオンもあった。

岡倉天心先生。

作中にもちょいちょい出てくる天心先生。
天心先生の没後、原三渓とかがパトロンに付いて、大観もそうかもだけど、特に観山の絵は生き生きとしてくる。
明治という時代において天心が対外的に見せる必要があった「日本美術」。大正に入るとそんな「ナショナル」を確立させるという役割が終わって、作品にはパーソナルな、「個」が要求されるようになった……と、展覧会の構成としては説明されていた。
なんかサッカーみたいな話(六角形のブルーロック…!!)だけど、まあ、描いてて楽しかったのは天心先生没後だろうな、どうしてもそれは。と感じざるを得なかったわね。
ただ、中国の不遇の賢者に見立てたり、ちょいちょい出てくる天心像から見て取れる純粋な尊敬と心酔、感謝の念も、もちろん心を打ってくる。
亀仙人と悟空の関係というか。サイヤ人としての数値的な強さだけでは、悟空は『ドラゴンボール』という作品を通して到達する「強ぇヤツ」になれなかったはずよね。
五浦の「修行」時代……例えば竹中直人が天心を演じた映画の世界を見るとまず「やってんなあ」と思ってしまうんたけど、やはりそこには観山を観山たらしめ、大観を大観として完成させるために必要な時間があったんだろう。死んでしまった菱田春草は可哀想だけど。
これも展示されてて、ジーンとしてしまった。見送る鵜の悲痛な鳴き声が聞こえるようだった。
左隻にぽつんと飛び立つ鵜(春草)は『かもめのジョナサン』の孤高も思わせる。それこそ『ドラゴンボール』最終盤の孫悟空と同様に。

鍾馗。端午の節句ドンピ。

荘子。よく見たら幽体離脱して、ちょうちょ飛んでる。邯鄲の夢のくだりらしい。


既視感。

これは鵜でもあることだし天心と弟子たちに見えなくもないけど、画題に反して窮屈さとは無縁で、のどかだね。これが一番よかったな。
おわり。
