
息を飲むほど美しい景色が育んだ大学時代のあの人へ
大学の頃、ほんのり気になっていた先輩がいた。
彼は大学で野球をしていた。サークルではなく、ちゃんとした大学野球の、しかもレギュラーだ。プロから声が掛かることはなかったが、内野陣を引っ張る守備力とパンチ力のある打撃センスの持ち主で、社会人でも野球を続けた。
この「ほんのり」というのが重要で、決して本気だったわけではない。別に日頃から近い距離にいるわけでもないし、それほど話したことがあるわけでもない。気になる存在ではあったが、「じゃあ付き合いたいのか?」と言われれば明確にNOだった。これは決して強がりではない。
そして相手の彼も、友人から「あの子(←私)どうなん?」と聞かれた時「うーん……ええけどあの子歳下やしな」と言っていたと聞いている。彼は歳上好きだったのだ。だから私たちの人生は、大学時代の一つの時ですら交わることのないまま大学を卒業し、それぞれの道を歩むこととなった。
その先輩を、仮にマモルとする。
マモルのことは大学卒業後、一切の消息を知らない。社会人野球の戦績などを追えば多少なりとも分かっただろうが、私はあえてそれをしなかった。
それから長い月日が流れ、私は結婚し家庭を持った。そして私の旦那の地元は、たまたまマモルの故郷の近くだった。
どこまで遡っても代々東京出身家系の私は、田舎というものを知らない。旦那の実家には年二回、各一週間程度帰省するが、今でも帰省時に山と田畑が見えるだけでワクワクする。私は免許を持っていないので田舎暮らしはできないが、それでも帰省のたびに良いところだなと思う。表面だけを見た浅はかな発言ではあるけれど、いつかはこういうところに住んでみたいとも思う。
そんな私にとっては、目の前に山と田畑が広がる旦那の実家でも十分過ぎるほど田舎だったが、マモルの故郷はそこからさらに山奥へと車を一時間ほど走らせた先にある。義母からは「相当田舎やで」と聞いていたが、このシルバーウィーク、初めてその地域に行く機会があった。
高速に乗っていくつものトンネルを抜けていく。トンネルを抜けてもまたトンネルだ。そんなことを繰り返すうちに、やがて看板にマモルの故郷の名前が現れる。高速を降りて一般道に入ると、徐々に車窓の景色が移り変わっていく。私にとっては日本の田舎はどこも同じに見えていたが、その時車窓から見た彼の故郷の景色は、私から一瞬だけ語彙のすべてを奪い去った。
そこは、田舎というのももはや違う。そこにあったのは、あまりに豊かで美しい大自然だった。
目に見える景色は、山。そして川。空。要は谷あいである。川は山の裾野を大きくうねって流れている。その水は豊かで澄み渡り、浅瀬を走る水滴は陽光にきらめき、深間も水面から水底までが一様に見渡せる。視界に人工物の類は一切なく、また観光地でもないため人間すらも存在しない。あまりにも雄大で美しい自然がそこにあった。
車は川に沿って走る道路を進む。道路は見事に川と同じ形をしている。川に沿って道路が作られているから当然だ。私が生まれ育った場所では人工物と人工物の隙間に自然があるが、ここでは自然の隙間に道路や家や車がある。都会を生きていると意識することのない「地形」というものに、人間様が住む場所を少しだけ間借りしている。まさしくそんな世界であった。
目的地に到着した私たちは、車を降りて、車窓から眺めていた川へ向かった。ここ数年であればまだまだ暑かっただろう九月のこの時期も、今年の秋は暦に従順であった。吹き抜ける涼やかな風に、夏の気配はすでにない。少しだけ護岸された川辺以外は、ただただそこにある自然。マモルが幼少期を過ごした時代はすでに遠くなったけれども、きっとその頃の九月にも、同じ景色がここにはあり、これから先もきっとこの景色が続くのだろう。そうであって欲しいと願う感情が、自然と胸の中に湧き起こった。
──ここが、マモルの生まれた故郷なのか。
私はあまりに美しい彼の故郷を眺めながら、大学時代の彼のことをしんみりと思い出していた。
マモル。趣味は風俗通い。
特に熟女系風俗が好き。
……あ、すいません。唐突に話のテンションが変わったので皆さん戸惑っていると思いますけど、マモルってそういうヤツなんです。最初に私書きましたよね? マモルは「あの子歳下やしな」と言って私をソデにしたと。あれはそういうことです。最高に嫌な伏線回収である。
マモルは男三人兄弟の次男であった。だから常々「姉ちゃんとか欲しかった」と言っていた。完全に姉ちゃんというものに間違った幻想を抱いている。野球部のマネージャーに身長180cmくらいある包容力のありそうな女子がいて、その子に対して「◯リたいから付き合ってすぐ別れようや」と持ちかけたこともあるらしい。終わっとんな。マモルマジで終わっとるわ。
最初に私は「当時マモルと付き合いたかったかと言えば明確にNO」だと書いた。それは強がりではないとも書いた。きっと読んだ皆さんは「いやいやまたまた〜、とか言いつつ本音では結構本気で好きだったんでしょ?」とか思ったに違いない。しかし残念ながらそれはNOだ。マジで、ガチでNOだった。だってそうだろう、誰が好き好んで人妻・熟女系の風俗に通う先輩を好きになるんだよ。もし付き合ってくれと言われてもガチでお断りだよ。
マモルはここで生まれ育った。そんなマモルの趣味は釣りだった。そりゃそうやろな。釣りくらいしか他にやることなさそうやもんな。つまり私が今日何を言いたいかといえば、『子供は田舎で大自然に囲まれて伸び伸びと育てたいんです』みたいな意識高い子育てのアレ、残念ですけど幻想ですから。どんだけ美しい自然に囲まれて、釣りや野球などの外遊びで子供を育てても、しょうもねえ大人は誕生しますから。いやほんとうに。
私はマモルの故郷の景色を見ながら、思い出の中のマモルの顔を思い浮かべた。
美しい景色。
薄汚れたマモル。
深呼吸したくなるような澄んだ空気。
ヘビースモーカーだったマモル。
清流と呼ぶに相応しい川。
熟女風俗通いのマモル。
私は目の前の景色に感動しながら、交互にマモルの顔がチラついた。お前、マジでなんでそうなったんや。この土地の澱みを全部一人で引き受けたんか。
おそらくだが、都会出身の私が山が見えるだけでテンション上がるように、ド田舎出身のマモルは逆にきらびやかな夜の街の魅力に取り憑かれてしまったのだろう。世の中とは大変皮肉なものである。美しい世界で育ったからこそ、きっと澱みに心惹かれてしまったのだ。
それでも、私はマモルの故郷を、この美しい景色をこの目で見られて良かったと思う。私は澄み渡る青空をもう一度眺め、その景色を心に焼き付け、静かに彼の故郷を後にしたのだった。
そういえば、マモルとは一度だけ、二時間ほど二人で会ったことがある。それが唯一と言っていいマモルと私の二人の思い出だ。
と言っても大学のラウンジで、他の学生がワイワイガヤガヤいる中である。物を渡す約束をしていたので、私は新しく買ったワンピースを着てラウンジでマモルを待った。三秒で用事が済んだ後も、二人でなんてことない話をした。その時私は「メルティーキッス」というチョコを持っていて、喋りながらマモルにあげた。マモルは二つ食べた。ヘビースモーカーだったはずだけど、その時のマモルは、タバコを吸いたいとは言わなかった。今でもメルティーキッスを見ると、あの日のマモルを思い出す。
……多分、マモルは本当は優しい人だと思う。今でも、ほんの少しだけ。
【どぶ色牧場🐑042/マモル】(3,090字)
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