
論語とプロティノス 憲問篇14-24
論語 憲問篇14-24
子曰、君子上達、小人下達。
書き下し文
子曰わく、君子は上達す、小人は下達す。
一般的な現代語訳
先師がいわれた。――
「君子は上へ上へと進む。小人は下へ下へと進む。」
下村湖人『現代語訳論語』(青空文庫より)
短い一節だが解釈はしづらい。「上達」は現代日本語でも一般的に使う言葉なので、「レベルアップ」というくらいの意味なのかな、とイメージを持ちやすい。しかし、「下達」の意味が分からない。単純に考えれば「レベルダウン」ということなのだろうが、どういう状況を指しているのだろうか。
何かを学んだり、練習したりしても進歩が緩慢な人とか、ほとんど進歩しない人はいるだろう。だが、学べば学ぶほど、練習すれば練習するほどかえってレベルが落ちていく、という状況はちょっと考えにくい。冒頭で紹介したのは「君子は上へ上へと進む。小人は下へ下へと進む」という解釈だが、「下へ進む」というのが、やはりどういうことかよく分からない。素朴に考えれば、小人は堕落するということだろうか?
このままでは埒が明かないので、他の解釈も参照してみよう。岩波文庫版の論語では、「君子は高尚なことに通ずるが、小人は下賤なことに通ずる」と解釈されている。もちろん、そういう意図だったのかもしれないが、やや高踏的・権威主義的だし、あまり面白くはない解釈である。
筆者が台湾で購入した論語の現代中国語訳では、「君子不斷上進, 實踐道義:小人放縱慾望, 追求利益(君子は不断に向上し道義を実践するが、小人は欲望のままに利益を追求する)」と解釈されている。「下達」を利益追求の意味に解釈するのは、論語で君子と小人が対比されている別の箇所、「君子は義に喩り、小人は利に喩る」(里仁篇4-16)も踏まえれば(孔子の中での)内的整合性はみえるが、「下達」という言葉自体の定義は結局何なのかについて、若干のモヤモヤが残る。
「下達」という言葉が何を指しているのか調べてみたら、漢和辞典で次のような解釈を見つけた。

「本質的でないつまらない事柄を詳しく知る」、これではないだろうか。なお、同辞典で「上達」をひくと、次のように出てくる。

『漢字源』での解釈を踏まえると、「上達=根本的な道理を知る」「下達=本質的でない事柄に詳しくなる」という構図がみえてくる。論語の別の節で孔子は「君子は器ならず」(為政篇2-12)と言っているが、これは「君子は(特定の知識分野にだけ特化した)スペシャリストではない」と解釈されることが多く、この節との内的整合性も若干みえてきそうである。
ここまでの話を踏まえた上で、「君子は抽象的な法則・真理に達するが、小人はそれに達せないので個別具体的な枝葉末節にやたらと詳しくなる」、こう敷衍しても牽強付会が過ぎることはないと思っている。筆者が大学時代にお世話になった先生が「切り口はできるだけ小さく、そこから抉り取る真理はできるだけ大きく」ということをよくおっしゃっていたのを思い出す。
抽象的真理=上位、個別具体=下位というヒエラルキーはプロティノスの流出論を彷彿とさせる。これはプラトンのイデア論を受け継ぎつつも、それに抽象的・普遍的=上位、個別的・物質的=下位という階層構造をもたらす思想であった。

一者(The One)
↓
知性(Nous)
↓
魂(Psyche)
↓
物質(Matter)
プロティノスの新プラトン主義がキリスト教と合流することで、キリスト教神学の基礎ができたといえる。上述のヒエラルキーの頂点を神、次を天使、その下に人間、最後に人間以外の被造物(動植物など)と置き換えれば、概ねそのままキリスト教神学の世界観の出来上がりだ。
東洋でこういった形而上学は残念ながらあまり発達しなかったが、もしかしたらその萌芽と成り得たかもしれない思考が憲問篇14-24に見いだせることは個人的に興味深い。
その一方で、抽象=君子が扱うこと、具体=小人が扱うことというヒエラルキーは、現代人からすればそのまま受け入ることはできない。科学的法則は具体的事例から帰納してこそ確立できるからだ。もちろん、個別具体的な知識の収集のみに終始するのも望ましくないだろうが、現代の我々としては、「下達なくして上達なし」とでもいったことも意識したほうがよい。
孔子が「君子上達、小人下達」を述べたシチュエーションを筆者は知らないし、おそらく研究でも明らかになっていないと思うが、何か本質的でない枝葉末節をやたらに指摘してくる人物にでも出会い、むかついていたのかもしれない。だが、枝葉末節=小人が学ぶこと、と決めつけるのはいささか早計だったのではないか。問題なのは枝葉末節のみに終始する態度であって、個別具体的な知識のほうではない。
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