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木村二朗の「円相」をめぐる考察


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    円は終わりではなく始まりだった

    木村二朗の作品といえば晩年のひとつの到達点は「円相」といえます。
    「円相」といえば禅僧・仙厓、吉原治良、ジャスパージョーンズ、マザウェルあたりが有名ですね。

    では木村にとっての「円相」とは。

    最初はモンマルトル、スペインやチュニジアの街並みを描きました。

    精力的にマヤ文明やトロイ、シルクロードを描いた。

    古代文明や神話、宗教や人類の起源をテーマとした作品群を辿っていくうちに、やがて木村が根源的、本質的な方向へ向かっていく。

    その果てに現れるのが円相の作品群である。


    円相ではあるが禅画ではない

    木村の円相作品を見れば、宗教や哲学に興味ある方なら時、私は禅寺の墨蹟に見る円相を連想するでしょう。

    しかし見続けるうちに違和感を覚えた。

    木村の円は、仙厓や白隠の円相とは少し違う。

    あまりにも物質的であり、作品によってはトレースに近い言い換えれば円周率にそってるものすらある。

    禅画の円相は一筆の気迫によって描かれる。

    対して木村の円は、削られ、刻まれ、盛り上げられ、執拗なまでに構築されている。

    まるで円を描いているのではなく、

    円という存在そのものを制作している

    ように見える。


    球体への憧れ

    木村の円相作品を見ていて強く感じるのは、

    これは平面上の円ではなく、

    球体なのではないかということだ。

    実際、木村は後年、人類の起源や宇宙、神話、宗教への関心を深めていく。

    マヤ文明。

    トロイ。

    敦煌。

    ギリシャのイコン。

    それらはすべて、人類が宇宙や神とどう向き合ってきたかを考える旅でもあった。

    その果てに、極めて単純な形へ回帰した。

    円。
    宇宙そのものを象徴する球体。

    木村の円相は、そのように感じられる。


    妙珠在掌

    木村作品を見ていると思い出す禅語がある。

    妙珠在掌(みょうじゅざいしょう)

    である。

    宝珠は遠くに存在するのではない。

    すでに自らの掌の中にある。

    悟りや真理は外に探し求めるものではなく、最初から自分の中にあった。

    木村が晩年に描いた円の多くは、この思想と不思議なほど重なって見える。

    巨大な神殿、古代文明、世界中のミステリーなエリアを旅した。

    そしてたどり着いたのは、円だった。一種の哲学を感じる。

    しかし木村の円は静かではない

    木村の円相は禅僧や日本の円相を描く作家さんとは対極であり静寂だけで成立していないことである。

    近づいて見ると、その表面には無数の痕跡がある。

    線刻。盛り上がり。粒子。物質。

    ある作品では赤い文明の記憶が渦巻き、ある作品では黒い円環が宇宙の入口のよう。ある作品はタイムマシンや4次元の入り口。

    木村の円は決して完成された静かな円ではない。潔い円のみを追求したわけでもない
    むしろ、人類の歴史そのものを抱え込んだ円かもしれません。


    木村二朗の「芯」

    私は木村作品を数多く出品しました。どれも魅力的である。

    「木村二朗とは何か」を一枚で語れと言われたら、円相作品を挙げる。

    なぜならそれは世界中の聖地を巡礼した結果、文明への憧れも、宗教への関心も、宇宙への問いも、すべてが凝縮されているからである。


    木村二朗の円相は、単なる抽象画ではない。

    装飾でもない。禅画の模倣でもない。それは生涯を通じて世界を旅し、人類や文明、宇宙について考え続けた一人の画家がたどり着いた、

    静かな到達点なのである。

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    仙厓の円、それは「悟り」の境地、宇宙や空を表現したもの。一気呵成な凄みあるもの。

    吉原の円、「行為」何にも似てない円、アクションペインティング、具体の精神。
    木村の円、「文明」宇宙、宗教、古代文明、人類の探求(旅路)の帰結。あるいは「球」ではないかと思っております。


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