
東野圭吾の『白鳥とコウモリ』を観た
考えさせる映画でした。
ずっと読みたかった小説の一つでしたが、映画になったことを知り観に行くことに。この連休は台風で何もできなそうで、映画館に行ってのんびりするのが心地よいです。
さっとベルギービールを飲んで、TOHOシネマズ日本橋でレイトショーで楽しみます。
人気の映画でわたしのように小説も読まずにこれから観るという方も多いと思うので、あらすじとかネタバレなしで書こうと思います。
誰かを本当に助けられるのか
最後まで観て浮かび上がってくるのは、誰かを庇ってもほかの誰かが苦しむことになるという絶望的な罪の連鎖です。
よく言われる憎しみの連鎖とは少し違います。
寧ろその鎖を切るため、あるいは鎖が嵌まらないように、行動したひとりの人間が描かれます。
この人も別に聖人ではありません。衝動的にひとを想う気持ちからある人を助け、それによって「罪」があらぬところに移転していき、自分のしたことの贖罪を求め続けます。
あのシーンに自分が遭遇していたらどうしただろうかと考えます。
あのひとと同じように行動していたかも知れないとも思いました。それは一筋の正しさや美しさを帯びた行為だったかも知れません。
しかし、この作品はそこからの展開が残酷です。善意による判断がある意味で瞬間的または短絡的であって、そこから歯車が狂い始めていったことが最後に明かされます。
その後の時の流れのなかで起きたことはすべて、なし崩し的なものと言ってよいでしょう。
それくらいあのはじめの行動が運命の別れ道として作用していて、思い返すと暗澹たる気持ちになります。
善が悪になり、白も黒もはっきりしない、もっと言うと善は同時に悪であるというようなあの日の出来事について、この作品はわかりやすい答えを出しません。
一方、作品の構造的には大まかに言って親子二世代のレイヤーで描かれていて、それぞれに行動が異なっているのが仕掛けとして面白いです。
親子といっても一つではなく、いくつかの親子が出てきます。
それぞれに置かれた状況やパースペクティブがある訳ですが、それもやはり哀しいほどコロっと転倒してしまいます。
徹底的に、善と悪の境界が曖昧で混沌としていることを描いているように感じました。
小説でどうなっているのか分かりませんが、映画は絶望だけではなく、自分たちをどのように救っていくのかというテーマも扱っています。
主演のふたりがその象徴であり、若々しい彼らのひたむきさはとても眩しいものでした。
映画としてどこに光を当てるか
展開的にはよくあるものでした。
複雑に絡んだ人間関係と事件の真相が最後に明かされるという流れです。
話としては分かったのですが、それぞれの人間たちの動機や感情一つひとつに入り込めたかというと未消化な部分がありました。種明かしされると、余計になぜという問いが置き去りにされたような感覚です。
ただ、必要な情報は断片的であっても確実に描き込まれてはいたので、帰り際に考えながらようやく腹落ちしてはいきました。
そういう余韻のある作品と言えば聞こえがいいですが、そのまま終わってしまうケースもあるのかなと思います。
ラストシーンにしても映画としては綺麗に仕上がっていたと思いますが、わたしには少し取って付けたような感が残りました。
彼らが希望を持つということと、あの人があの日したことについて処理が済むことは別の話です。
わたしには後者の方がズッシリと響いていて、そこをもっと消化して欲しかったというのが正直な感想です。
個人的には同じ東野圭吾の映画なら『祈りの幕が下りる時』の方が丁寧に終わっていくというか、不要な救いも発散もなかった記憶があります。
今回の作品はまた違うところへ視座を持とうとしているのでしょう。
小説を読んでみたら、この辺の疑問というか打ち込まれた釘のようなものが少しは抜けるのかもしれません。
あとがき
いつも通りそこまで込まないシアターでした。
かなり久しぶりでしたが、ポップコーンを抱えながら推理物を神妙な顔をして大きなスクリーンで観るのは結構楽しかったです。
帰りには雨もほとんど降っておらず、嵐の前の静けさに日本橋の街路の灯りが照っていて、ペールギュントの朝とは全く違う景色でした。
いつか原作を読んでみたいと思います。
以上。