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【心震える本】A.クリスティ-『春にして君を離れ』は極上のミステリーだとやっぱり思うから

    「ミステリーじゃない」のに強烈に惹かれてしまう1冊


     困った。アガサ・クリスティーで「大好きな1冊」を書こうとしたら真っ先にこれが浮かんでしまう。いや『オリエント急行の殺人』も『アクロイド殺し』も『五匹の子豚』もいい、『そして誰もいなくなった』も素晴らしい――けれど真っ先に思い浮かぶのは『春にして君を離れ』なのだ。

     なにしろこれはミステリーじゃない。ミステリー大好き、とふだんから言っている自分の選書としてはどうかと思う。でも、まずはこれしかない。

     かのクリスティーが書いた「ミステリー以外の作品」として知られる、ある意味大変な異色作だ。もし彼女が現代の作家なら、私はこの作品に関する「著者インタビュー」を検索し読みまくるだろう。奇跡的なチャンスを得たなら、直接尋ねてみたいとすら思う。

     ――どんな着想からこのような作品を書いたのですか?

     ――主人公のジョーン・スカダモアにモデルは?

     ――あえて「ミステリー以外」の本作を書き上げたところにむしろ強い意欲を感じます。「人間」に対するあなたの「諦めと愛情」が込められているのではないですか?

    めぐる思考――果たして「私の人生」はどんなもの?


     『春にして君を離れ』の簡単なあらすじはこうだ。

     1930年代イギリス。優しく勤勉な夫ロドニーと3人の良き子どもに恵まれ、自分の人生に満足している40代の主婦ジョーン・スカダモア。バグダッドに暮らす娘の病気見舞いを終えてイギリスへ帰る途中、鉄道のトラブルで数日間レストハウスに滞在することになった彼女は、ある思考をきっかけに家族との生活を振り返る。やがて頭をよぎる「こうだったのかもしれない」という恐ろしい可能性。果たしてそれはただの想像か、真実か・・・。

    アガサ・クリスティー
    『春にして君を離れ』あらすじ

     クリスティーは当初、メアリ・ウェストマコット名義で本作を発表したという。それは「謎解きを期待して読んだ人ががっかりするといけない」との配慮だったと何かで読んだけれど、つまり自分が書いたと気づかれなくても構わないということだ。

     読者や出版社からの期待に応えるために書いた作品でないのなら、「書きたいから書いた」という理由しかない。あのクリスティーがそこまでして書きたかったテーマとは? そこに強烈に惹かれてしまう。

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    旅立つ日、見送りの夫ロドニーは汽車が出るのを待たずにプラットフォームを去って行きました。ジョーンは何となくそのことが気になります

    主人公の言動、家族の言葉…回想シーンすべてが伏線

     
     読みどころは、なんといっても主人公ジョーンがひたすら「思い出して、考える」場面。というかほぼそれしかない。物語は終始ジョーンの主観で進む。そして自分の人生の真実にジワジワと引き寄せられていくジョーン。

     ヒントや伏線はもう数え切れないくらいある。というより、回想するエピソードすべてが伏線と言っていい。

     一見ありふれた家族の日常を描いているようでいて、読み手に「?」と妙な違和感を覚えさせるジョーンの言動。このゾクゾク感はクリスティーにしか出せない味わいだ。

     たとえば、弁護士を辞めて農場を経営したいと語る夫ロドニーに「二人分の分別」を働かせて猛反対するジョーン。

     長女エイヴラルが道ならぬ恋に走った際、「不道徳な」と怒りをあらわにした母ジョーンと、娘に「相手の男性から仕事を奪う可能性」を示唆し諭した父ロドニー(これ、現代では男女がどうのという話じゃないけれど、人から天職を奪うことの罪深さをロドニーが述べていて興味深い)。

     そして、
     
     なぜジョーンは「夫が自分以外の女性に惹かれるとしたら若く美しいマーナ・ランドルフ」と決めつけていたのか。

     なぜあの日、同じ街に住む中年女性レスリー・シャーストンと夫は、四フィートもの不自然な距離を開けて高台に座っていたのか。

     なぜあの日、ロドニーの上着からぽとりと落ちたシャクナゲの蕾を・・・その血のような光景をジョーンは忘れられないのか。

     愛する人に対し、愛するがゆえにしてはいけないことはなんだったのか?

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    ジョーンは周辺に砂漠しかない宿泊所で数日間過ごすことに。何もすることがなかったら、私たちもひたすら「考える」のでしょうか

    実は「日常の謎」ジャンルの名作なのでは


     物語後半でジョーンはついに「自分についての新しい発見」をする。
     
     人生折り返しの年齢で、「私って意外と赤が似合うのね」とか、「登山って楽しいんだ」とか、そんな新発見ができたのならどんなに良かったろう。

     ジョーンは自分の犯した「罪」に気づく。

     かなり苦しい。

     ――けれどもこの「罪」、感情的な要素をちょっと置いといて、構造的に考えてみるとこれはある意味「日常の謎」というジャンルのミステリーかも、と思えてくるのだ。

     しかも、主人公ジョーン・スカダモアが1人何役も担当している。つまり

    ◎探偵:ジョーン・スカダモア
    ◎犯人:ジョーン・スカダモア
    ◎証人:ジョーン・スカダモア
    ◎書記官:ジョーン・スカダモア
    ◎弁護士:ジョーン・スカダモア
    ◎検察官:ジョーン・スカダモア

     ――という感じ。

     真実が明らかになる後半はもう、ページをめくる手がとまらない。そしてジョーンによる「最後の選択」まで、胸をえぐられるようなサスペンスフルな展開になっている。

     クリスティーは「これはミステリーではない」と言いながら、それでもやっぱり「人の心の謎解き」で平凡な人間の罪を暴いてみせている。残酷なまでに。

     やっぱり世紀の物書きだ。

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    愛を持って生まれてきても、愛し方が上手なわけじゃない・・・誰もが人生一周目


    人は誰しもジョーンかロドニーなのかも


     20代でこれを読んだ時、私は震えた。
     まだ夫も子どももいなかったが、周囲の人間に対し私はジョーンのように振る舞ったことはないだろうか? 
     間違いなく大きな影響を受けて今日まで生きてきた(それで人生が良くなったかどうかは別問題だけど、少なくとも夫が転職したいと言ったら真剣に話を聞くつもり・笑)。

     ――けれどこうも思う。ジョーン・スカダモアは特別悪い人間じゃない。こんな人はたくさんいる。たぶん世界中にいるし、何も気づかずに生きて(死んで)いく人もいるだろう。

     あるいは「ロドニーのような人」も(けっこう)いるだろう。
     さらには両方の性分や立場を抱いている人もいるだろう。


     平凡な人間の無意識の罪。
     悲しく魅力的なテーマ。 
     だからクリスティーは書きたかったに違いない。

    簡単にはおすすめできない名作だったりもして


     ーーそしてまた、この本には(個人的に)最大の難点がある。「うかつに人にすすめられない」という点だ。

     小説を読み慣れている人や、クリスティーを数冊読んだことがある人なら「こういう作品もあるんだね」と言ってくれそうだけど、「読んだ結果、病みました」と言われたら責任が取れない。

     人によっては本当に地雷かもしれない内容なのだ(逆に大して響かない人もいるだろう。このへんが難しい)。

    この先構造的なネタバレをします、未読の方はご注意ください

    (核心的なことは書きませんが・・・)


     さて、実はエピローグにとんでもない仕掛けが残っている。

     詳しくは書かないが「夫ロドニーの視点」で綴られるのだ。この部分は「もうひとつの謎解き」であり、ジョーンが自分でたどりついた真相の「裏付け」にもなっている。

     ここで明かされるロドニーの本音には、読み手それぞれの感想が生まれるだろう。

     彼を気の毒――と思うか。
     優しくて我慢強い人――と思うか。
     人ってわからないなぁ――と思うか。

     私は、妻ジョーンに一定の愛情を抱きながらも、どこか空虚なロドニーが怖かった。

     人って心底気づいてほしい相手には本音を伝えるものだと思う。夫婦だけじゃない。どんな関係でも。大切だからこそ厳しいことも言う。それには勇気と愛と、自分も傷つく覚悟が必要だ。だから、ロドニーは・・・。

     ラストの3行は強烈すぎて、私にはグサリと突き刺さる。

     そしてあの印象的な場面でロドニーの上着から落ちたシャクナゲのように、自分の胸から赤いものが流れ出る気がしてしまうのだ。
     何度読み返しても痛い。

     けれどいつか、再読してもこの痛みを感じなくなった時、私はこの本を卒業するのかもしれない。

     あぁ、やっぱり尋ねてみたい。

     ――クリスティーさん、あなたはどんな着想からこのような作品を書いたのですか?

     ――主人公のジョーン・スカダモアにモデルは?

     ――あえて「ミステリー以外」の本作を書き上げたところにむしろ強い意欲を感じます。「人間」に対するあなたの「諦めと愛情」が込められているのではないですか?

     そしてもし3回くらい生まれ変わって、時空を超えあの時代のイギリスに存在することができたら。奇跡的に近しい人物になれたなら。

     ――慣れ慣れしくもこう尋ねてみよう。
     「ねぇアガサさん、この作品『ミステリーじゃない』って言ってるけど、やっぱりミステリーとしても面白くしようと思って書いたでしょ? ね、ね、そうでしょ?」

     
     怒られるかなぁ。

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    シャクナゲの花言葉を調べると「威厳」「危険」「用心」など・・・(西洋でもそうなのかな)。
    なんか不穏ですよね。アガサさま、これも計算でしょうか

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    最後まで読んでくださり、ありがとうございました!
    素晴らしい読書体験がたくさんの方に訪れますように
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    〈本データ〉
    『春にして君を離れ』(著者 アガサ・クリスティー/中村妙子 訳/ハヤカワ文庫/税別600円)


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