
人生を整える、六つの智慧。
人は、他人を変えようとする。
思いどおりにならない現実に腹を立て、努力が報われなければ腐り、自分の正しさを疑おうとしない。
しかし、他人を変えることは難しい。現実をすべて思いどおりにすることもできない。
ならば、まず整えるべきは自分自身ではないだろうか。
仏教には「六波羅蜜」という六つの実践がある。
人に施すこと。自分を律すること。苦しみに耐えること。努力を続けること。心を静めること。そして、物事の本質を見極めること。
古い教えだが、今を生きる私たちにも通じる智慧がある。
一、布施|見返りを求めない
人に何かを与えれば、感謝されたいと思う。
尽くせば報われたい。親切にすれば好かれたい。
しかし、見返りを期待した時点で、与えることは取引に近づく。
布施とは、金品だけでなく、知識や時間、思いやりを分かち合うことだ。
与えたものが返ってくるとは限らない。それでも、与えるべきときに与えられる人でありたい。
他人の反応まで、自分の期待で縛らない。
二、持戒|自分を律する
欲望のままに生きることを、自由だと思ってはいけない。
怒りに任せて言葉を吐き、欲に任せて金を使い、面倒になれば約束を破る。
それでは、自分で生きているのではなく、衝動に動かされているだけだ。
持戒とは、自らを律し、守るべき道理を守ること。
誰も見ていないところで何をするか。思いどおりにならないときに、どう振る舞うか。
そこに、その人の生き方が表れる。
自分を律することは、自分を縛ることではない。自分を見失わないための規律である。
三、忍辱|感情に支配されない
人に侮辱されれば腹が立つ。
努力を認められなければ不満が生まれる。
だが、相手の言動に心を乱され続ければ、自分の人生を他人に明け渡すことになる。
忍辱とは、苦しみや侮辱に直面しても、怒りに支配されないことだ。
耐えるべきことと、離れるべきことは違う。黙って受け入れることが、常に正しいわけでもない。
大切なのは、感情のままに反応せず、どう行動するかを自分で決めることだ。
怒りを感じることと、怒りに従うことは違う。
四、精進|淡々と続ける
やる気が出ない。時間がない。環境が悪い。
何かを始めない理由は、いくらでも見つかる。
しかし、理由を並べても、何も積み上がらない。
精進とは、善い行いに努め、怠らずに続けることだ。
大きな決意を語るより、今日やるべきことをやる。結果が出なくても、必要な努力を重ねる。
気分が乗らない日にも、歩みを止めない。
意志とは、決意の強さだけではない。決めたことを実行する力でもある。
五、禅定|心を静める
身体は休んでいても、心は忙しい。
過去を悔やみ、未来を案じ、他人の言葉を何度も思い返す。
目の前の出来事より、頭の中の出来事に疲れていることも多い。
禅定とは、心を静め、散乱する意識を整えることだ。
考えを無理に消すのではない。浮かんだ考えに振り回されず、目の前のことに意識を戻す。
心が乱れたままでは、物事を正しく見ることも難しい。
静けさとは、何も起きないことではない。何が起きても、心を見失わないことである。
六、般若|自分の正しさを疑う
人は、自分の考えを正しいと思いたい。
自分の価値観、自分の経験、自分が選んだ生き方。それらを否定されると、自分自身まで否定されたように感じる。
しかし、自分が正しいと思うことと、物事の真実は同じではない。
般若とは、物事の本質を見極める智慧である。
目の前の出来事だけで判断しない。自分の都合だけで解釈しない。自分が知らないこと、自分が執着していることにも目を向ける。
賢さとは、知識の多さだけではない。自分の見方を疑えることでもある。
自分の正しさに執着するほど、見えなくなるものがある。
六つの実践は、ひとつにつながる。
他人に与えるには、見返りへの執着を離れる必要がある。
自分を律するには、欲望に流されない心がいる。
努力を続けるには、苦しみに耐える力がいる。
心を静めることで、物事を深く見つめられる。そして、智慧によって、自分の行いを見直すことができる。
布施、持戒、忍辱、精進、禅定、般若。
六つは独立した教えでありながら、互いを支え合っている。
知識として覚えるだけなら難しくない。
難しいのは、腹が立ったときに忍辱を思い出し、怠けたいときに精進を実践し、自分が間違っているかもしれないと考えることだ。
人は、自分を律するより、他人を批判するほうが簡単である。
自分を変えるより、環境のせいにするほうが楽である。
だからこそ、日々の実践に意味がある。